真の資格と合格

知覚されるものを、我々はどのようにして知覚するのか。知覚は我が内にて起こるものであることを否定する者はおるまい。たとえば目が見えないとしよう。最も身近な家族が近くに現れたことをどのようにして知覚するであろうか。気配だろうか。かけられる声でだろうか。触れられることによってだろうか。どのような知覚であれ、それは内的なものだ。では、その外的な家族が内側で知覚されるということは、知覚されるものもまた内的な存在ということにはならないか。知覚する者とされる者はともに内的な産物ではないのか。つまりイリュージョンなのである。

すべての知覚されるものを可能ならしめているものだけが実在ではないか。そして、その霊的原因なるものもまた、知覚可能であるが、概念としての我々の知覚をそれだけは超えているのではないか。つまり、そのような概念であれ、いかなるものの背後にもそれが在るのではないか。「それ」だけは普遍的かつ絶対的である。それは明らかに我々の魂よりも先の存在である。真にすべての背後にそれは内在し、浸透し、存在している。それだけが実在であり、それ以外はイリュージョンということにはならないか。

人間の意識は、「高所」すなわち魂意識で霊的な調和や解放を知るかもしれないが、その状態が啓示するものが霊つまり真我であり、それは我々の知覚を可能にしているマインドを超えているゆえ、知覚者による知覚物という性質を超えているのではないか。すなわち、「I AM THAT」という認識は魂意識で知られるが、より深い意識においては、「I=THAT」であって、したがって「I AM」だけが事実ではないのか。この一箇の存在だけが真の調和ではあるまいか。したがって、そこにおいて、魂というものは次元的に埒外であるだろう。究極においては、存在するのは究極だけであり、それ以外は真の意味では霊というより物質的な性質のものであり、我々からすればひじょうに高位のものですら霊的観点からは物質的なのではあるまいか。

この究極へと向かうように、神の意志は人間内にて働いている。その象徴が物質界の人間の瞑想である。目をつむり、客観から主観へと向かう術を人に教えるのが瞑想である。そのためには完全にマインドは超越される必要があるだろう。そうでなければ、概念ではないもの、概念の背後に在るものについては理解されぬままであろう。霊が父である。父の懐へと帰ること、溶け去ること、そのような瞬間にだけ真の純粋さがあるのではないか。それ自体がすでに我々の既知のすべてを超越しているがゆえ、我々は既知を通して、あるいは知覚されるものを通してそれに接近する必要はないのではないか。究極的なそれについて話すとき、我々は頭を通さずに我として知る必要がある。それはまさにわたしなのだ。そのような意味で、ジュワル・クールは、目から鱗が落ちるのはマインドを超越した後のみだと言ったのではないか。そして、リアリティーと非リアリティーの識別がそれに続く……。

よって、真我へと向かう衝動というものは、人間の理屈や欲求ないしは願望を超えたものだ。真の霊的衝動は最初から存在し、我々を導こうとしていることを我々は間近で知り、臨在の神を発見しなければならない。この世ですら、至るところに川は存在している。しかし、川は流れている! ひとつところに留まることなく、ひとつところへ流れている。どの川も。この流れを知り、この意志を知り、この力あるエネルギーを知り、それが導く先にして、すでにそれ自体にそれが含まれていること、この霊的な現在感、存在感、あるいは臨在に我々は気づくべきではないか。ちょうど川だろうが最終的な海だろうが共に構成しているのが水であるように。あらゆる概念の背後にそれは在る。というより、それだけが在る。それはすでに在る。修行の先ではなく、すでに在る。わたしはすでに存在している。霊的な到達という概念が錯覚であったことを知るのは、霊的に到達した後である。

家族の者がある資格を取得しようとしている。資格を何か持っているかと私は聞かれた。ひとつもこの世の資格を私は持たない。どのような試験も分からないし、どのような面接にも私は落ちるだろう。それでいて、わたしはあらゆる資格を超えている。あらゆる資格なしに存在している。イニシエーションには資格が必要だが、真我に資格はいらない。しかし、真我を知る者とは、いつの時代もイニシエートであるだろう。到達した者だけが、到達する資格を得た者だけが、最初から無資格に享受していた真の我を知るであろう。だから、あらゆる資格を私は瞑想で取得したと答えた。この世の資格ではなく、神性の資格を瞑想で学び、資格に適う器へとそれは成り、資格がそのために存在している実用性が、資格体を通して表現され流出されているのだと答えた。誰がこれを理解するであろうか。

「わたしの資格はあなたの資格とは比ぶべくもない低難易度である」と言われた。それは誤解だ。私はその人の資格の試験には決して受からないだろう。決してこの世で資格を認められないだろう。もっとも簡単で確実な資格は真我である。なぜこれを疑うであろうか。到達した者だけが到達しなくともよかったことを知るという性質であるゆえ難解に見えるが、この世の資格を否定するわけでは決してないが、真我実現と呼ばれる資格以外に真に必要な資格、真に重要な資格は私はありえないと思う。だからこそ、いかなるものをもいつでも捨て、また捨てる覚悟があり、何にもまして優先して、あるいは優先させられて、ほとんど無理矢理に、私は真我へと連れ戻された。そして、すべての働きのうちにこの力があり、どの人にもこの力が働いており、したがって流れている川に、いったい誰が抗いうると言うであろうか。遡上の試みには限界がある。自我には限界がある。これに気づいたとき、明け渡すよりほかに、まさに我々にはやりようがない。勝てないものを悟ることは良いことだ。偉大なることだ。戦わずして、競わずして、合格であることを知ることは、人類にいま必要なことだ。ゆえに、このような学びを得る者を、最高のカルマに生まれし者と私は言うのである。

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