未解決こそ自我の養分

人は未解決を求めている。ただし解決されたものは覚めて飽き足らなくなるゆえ、つねに未解決が必要である。届きそうで届かぬもの、神秘であるもの、掴みがたきものの距離感が必要なようである。なぜなのか。解決し、掴み取るまでの過程がアストラル体やメンタル体のエレメンタルを刺激し喜ばせるからである。自我の生という喜びを味わわせるからである。となると、探求とは名ばかりであり、非霊的であるに違いない。じじつ、わたしは探求してこなかった。ただ、ありのままをありのままに見てきただけだ。そこには力みというものがない。個人的な意図も目的もない。わたしはあるがままであり、そこから別の何かや概念や労作へと挑むことで、未解決の穴を埋めるという無限にして夢幻の補填に勤しむのではなく、すでにして達成されている存在としてのあるがままに憩うだけであり、ならば、そのどこが探求でありうるだろうか。

「どうすればいい?」と人は言う。未解決を解決したがっている。解決されるものは常に新たな未解決を生み出すだろう。未解決こそ自我の養分である。解決したら困るのが自我である。だから、自我の探求は非霊的であり、道を間違えていると言うのである。

多くの書物が言わない本質的な秘訣は、どう考えても伝導である。つまり、新しい高位の力やエネルギーの流入なしには、人間の意識内にて、自我を超えた能力が働き出すことは不可能である。このような力だけが、未解決を求める人間の精神自体を破壊しうるであろう。解決へと向かわせる条件づけから人間を解放するであろう。そのとき人は、あるがままを知り、何もする必要がなかったことを悟り、我解決なりと言うであろう。私で在ることが喜びにして愛そのものとなるであろう。

ここで弟子の特徴を述べる。彼らはもはや解決に何の興味もない。未解決はもはや何ら刺激ではない。未解決は解決への精神を呼び起こさない。これが、「神の御心のままに」という聖なる無関心の性質である。それは、高位我のエネルギーが器に浸透し、器が高位我の意識となり、未解決を必要とする低位我の性質を統御しており、我そのものによってのみ我々は充足可能だという意識から発せられる声明ないしは態度である。

世の中には、あえて未解決を探している者の、なんと多きことか。すべて解決してしまうことを怖れている者の、なんと多きことか。解決=死であることを我々は本当は知っている。未解決との距離感の中で自我は生きながらえる代物であることを心の深いところで知っているが、それを自らに問いただすほど成熟している者はほとんどいない。なぜなら、まだ、その距離感で愉しめたり、熱中できたりするものがあるからである。第二や第三イニシエーションの準備をしている者は、この事実から逃れられないだろう。なぜなら、この秘められた距離感で愉しみうるものは一つもなくなるからである。自我は急速に死へと向かっている。

意識は、形態や感覚知覚、外に向かう傾向に真の喜びや楽しみはないという事実に目覚め、ここから外に向かう傾向を徐々に撤去させ、霊を形態から抽出するための新しい努力が始まる。

アリス・ベイリー「魂の光」p.381

実際は努力ではない。伝導された高位の力がそれを行うのであり、我々にできることは「撤去」の力を理解し、邪魔しないよう自身を魂の位置から統御することだけである。伝導が鍵である。伝導体になることが極意である。しかし、この道は険しい。つまり誰であれ失敗の連続を経験する。この世というイリュージョンの中で、それを識別し、また未解決や解決から得られる快感などの感覚知覚やグラマーにも惑わされず、死人のように冷静に、高貴なる中庸の道を歩み抜かねばならないのだから。これには時間がかかる。そもそも、いつも言うように、高位のエネルギーの伝導を長く続けることは最初は不可能だからである。しかし、徐々に慣れゆかねばならず、さもなくば霊的な力が働きようがないことを再び理解し、自身という器を霊的に清潔に保つという意識的な生き方が新たに必要である。

多くの初心者はまだ自分で探求している。未解決事件を解決しようとしている。それは自我のためにしかならないだろう。秘訣は、高位の力を呼び込めるほどの器に自らを精製し浄化することである。世の探求者が言う浄化とは、高位の受け皿にするためのものである。入ってきた力が、我々の内側で必要とされている霊的な技を為すのであって、探求者である自我が為すのではない。解決しては未解決を求め続けている或る自我を見ていて、書くべきであると思った。誰が未解決を欲しているのか。誰が解決までの過程で快楽を得ているのか。もっと意識的であってもらいたい。でなければ、あるがままは永遠に知られず、本当の神秘は解かれぬままであろう。つまり、自我は続く。

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