毒を飲まされたとしよう。肉体は苦痛状態になるだろう。それは、肉体を自分だと思っているからである。肉体意識は、感覚知覚意識である。その苦痛に耐えられず非常に苦しむだろう。一方、私は肉体意識を瞑想で捨てた者である。私は肉体ではなく、唯一なる生命であることを理解させられた者である。長らく魂意識の時代もあったが、そこにはまだ苦痛があるか、超越不足であることにいつしか気がついた。魂でもなければ私とは誰なのか。命自体だったのである。これはもはや当たり前のことだが、気づくまでが長かった。そして気づいたとき、ジュワル・クールは「聖なる無関心」を弟子に教えるが、私は「聖なる無責任」を命において提唱する。肉体がすることと我々は関係がない。肉体がしたことの責任を我々は負う必要がない。肉体で悪いことをしたから肉体が苦しむことになっても、自分が肉体ではなく生命だと思い出しさえすれば、悪事の責任すら負う必要はないのである。あまりに無責任な話だろうか。しかし私は事実を述べている。
我は肉体にあらずして、我生命なり。我は魂にあらずして、我生命なり。生命意識に入ったとき、どうして肉体を知覚できようか。魂は愛や喜びを霊的に教えるが、それ以降、すなわち生命や霊を我と悟った者は、真に純粋な至福へと到達する。瞑想は、意識の焦点の起き方を教えるものである。最初は自分が魂であることに気づく。意識は魂に焦点化し――高所にて――途方もない自由と解放を味わう。しかし、霊はそれ以上である。ゆえに、意識を肉体ではなく、魂でもなく、霊すなわち生命自体に置くならば、記憶や時間や肉体人間からは自由になる。すべての既知の埒外へと飛翔する。おのれを生命と知ったとき、その者は肉体と関わる必要がなかったことを知るだろう。
いま、私の肉体の状態は悪い。普通の者なら文章は書けない。ある種の苦痛にのたうち回るかもしれない。なぜ私はそのような病状から自由なのか。意識は肉体と関わっておらず、意識はつまり魂は霊を我と認識しているからである。霊はもはや言葉が分かりにくいし誤解されやすい。生命が一番分かりやすい。私ですら、肉体に意識を向けたり、記憶に意識を向けたり、個人の意識にあえて戻るならば、そのような苦痛を味わうことになるだろう。しかし、意識を生命そのものに向けるならば、即座に自由である。肉体的な事柄や、マインド的な事柄は知覚さえできない。私が知り味わっているのは至福のみである。こうして、肉体は勝手に癒される。
みなさんは、肉体を自分と思うがゆえ、肉体の世話もまた自分がするものだと思っている。肉体を生かし養っているのは生命である。これに早く気づかねばならない。マインドが介入するゆえ、頭で、自らを肉体だと考えているが、瞑想によって、意識を逆転させ、つまり客観ではなく主観に向け直し、生命そのもので在るならば、肉体意識からは自由になり、その生命自体が勝手に肉体を養い癒すであろう。したがって、現象の世界で私に何らかの病状が起きたとしても、私は自らが肉体ではなく生命そのものであることを知るがゆえ、癒されてしまうのである。この極意を、この宝を、私はみなさんに伝授しなければ気がすまず、長年書いている。
現状では、世の中を見れば分かるが、自身が魂であると気づいている者すらごく稀である。魂の限界を知り、生命に溶け去っている者はほぼ見当たらない。なぜなのか。おそらく、個人にまだ耐えられるからだろう。個人的な楽しみがあったり、あるいは個人的な苦しみにかまけているからだろう。すなわち自作自演に陥っている。自作したものを自ら味わう人間を見て、「この世は舞台だ」とシェイクスピアは嘆いた。自らが役者でしかないことを人々は気づいていない。もし気づくならば舞台からは降りる。馬鹿馬鹿しいから。個人からは降りる。個人は捨て去られる。個人に耐えようなどとは思わなくなる。肉体人間には耐えられなくなる。なぜなら、それは限定されているからである。肉体意識は閉じ込められた意識であり、決して自由ではないからである。
我々は生命である。生命において一体である。これを知る意識だけが自由の何たるかを理解するであろう。魂すら放棄されるであろう。なぜなら、生命だけが真に自由だからである。肉体人間は、自由意志を自由だと勘違いしている。不自由を自由と感じるのが錯覚した人間である。個人からの自由、すなわち霊的自由のみが真に自由と呼びうるものである。好きなことをできることが自由ではない。好き嫌いからの自由が自由である。すなわち個人からの自由であり、自我からの自由であり、分離からの自由である。このとき、我々は魂として愛を知るであろう。一体ゆえの愛である。しかし、このような高位の感覚知覚さえもやがて限定とみなされ、魂すら限定であると結論づけられ、魂は迂回されるようになる。直接、生命に到達するようになる。あらゆる苦痛や、あるいは感覚知覚や、記憶や、時間や――意識から自由にさせるのは、生命だけである。
ある者は、純粋意識が悟りだと教えていた。意識と生命の違いが分からないのである。魂と霊の違いが分からないのである。キリストは、「わたしは、よみがえりです。いのちです(ヨハネ11:25)」と言っている。命において、人間は霊的に蘇るのである。これ以上の癒しはない。命以上の覚醒はない。もし瞑想によって命を知るならば、人間は本当に蘇ることができる。昨日、ワールドカップが始まったと言って多くの者たちが喜んでいた。可哀想に。そんなことでしか喜べないのだろうか。なぜそんなことに関わるのか。まだ、個人的な楽しみが優先されているのである。もし命を理解するならば、そのような話は苦痛でしかない。愛に欠けているのである。いかなる競い合いも争いも闘いも命である神は関わらない。ある者は、韓国が勝って腹立たしいと言っていた。命を知らない者はこうなるのである。命に分断があると誰が思うだろうか。命を分割することができるのだろうか。命はそれほど弱小なのだろうか。神はそれほど雑魚なのだろうか。命において、我々は一体である。個々の形態をこの世で見て、たくさんの命があるなどと思ってはならない。目に見えるすべては偽りであり、その背後の生命だけが真我である。真我とは、我だと言っているのである。見えるものと見る者は同じであると言っているのである。これが分かるであろうか。それほどすべては命において一体である。これが分からぬゆえ、戦争や争いが人間の世界では起きている。命が分からぬゆえ、自分と他人がいると思っている。
仏教が胎蔵界と呼ぶ意識では、すべては我が内にある。世界の中に我がいるのではない。どの世界であれ、すべては命に内在するものの影絵でしかない。悟りや真我覚醒のために修行している者は多い。自分を肉体だと思いながら。その前提が違うことにいつ気づくであろうか。肉体ではなく、生命が真我であることを、頭で考えてはならない。考えてもいいが、考えても到達しないことが分かったならば、マインドは統御して、内なる眼と意識において、眉間から、生命そのものを見出さねばならない。だから私は、何事も他人に頼りがちな者を見るとき、眉間に頼れと教えるのである。頭が生み出す固定観念なしに、眉間に頼り、そこから生命の世界に入らねばならない。私が命である。命が私である。これを知るのに、どうして修行や苦行が必要であろうか。それらは趣味だろう。逃避だろう。本当は知りたくないのだろう。まだ肉体としての個人に興味があるのだろう。いずれ、そのような興味の炎は消える。個人的な修行や苦行ができるほど元気ではなくなる。すべては捨て去られる。これが知恵である。そして肉体の責任者ではなくなる。聖なる無責任が顕現する。なぜなら、我々は命だからである。
