では何が正しいのか

生命と奉仕もまた同義語である。生命が奉仕を体現もしくは放射しているとき、人生は神生となり、人間の意志は神の意志にその席を譲る。これが建設的な生き方である。反対に、生命が神の意志を表現できず、人間つまり物質性の意志で歪曲されるとき、その人生は無知で破壊的な生き方になる。ほとんどの病気や災難や不幸に直結するものは、神つまり生命と、その意志に対する無知に由来している。私は、「奉仕できるから生きていられる」と言う。神の意志が奉仕であり、あるいは放射であり、伝導であり、流入と流出であり、流転であり、神の円すなわち至高の輪つまり和である。それは一だが、この輪と和の中に分離した個人が誕生するとき、神の美しき流れは堰き止められ、堰き止めた者は相応のカルマを背負うこととなり、それを通して何が正しく、何が間違っているのかを自ら学ぶこととなる。したがって、いま自己破壊的な生き方をしている者がいたとして、彼や彼女はそのような生き方や表現をしなければ次へ進めないことを知り、その者にとっては最高の学びを得んとしている最中であることを理解し、なるだけ援助してやるべきである。しかし、もし学ばず、神の意志もしくは生命そのものの純粋な意志の流れに身を委ねず抗い続けるならば、神が与える学びの糧は、より厳しく激しい苦痛や不幸となるだろう。究極的には死(という一時的な解放)へ導く。

仮に無限の金を得たとしたまえ。この世では大体のことはし放題だが、絶対に満足することはないだろう。欲望だけは、「ここで終わり」はないがゆえ、分離した個と物質の世界にどっぷりと嵌まり込むだけで、個で何とかしようとすればするほど身じろぎもならぬばかりの不幸と絶望で自らを縛り上げ、最後には死なせてくださいと懇願するようにさえなるだろう。神と個人を区別できなかったのである。生命つまり霊が私であって、肉体が私ではないことが分からなかったのである。

では、進歩した魂が無限の金を得たとしよう。進歩しているほど理解は速く、金と欲望に生きると自らを破壊してしまうことをすぐに学ぶだろう。このような者は、「では何が正しいのか」と自問するだろう。残念ながら頭では解けない。瞑想で自身である魂と融合し、その新しい意識世界に帰らぬかぎりは何も分かりはしない。神に入らねば神は分からない。生命つまり存在そのものを知らなければ本物の安心つまり正しい状態が何かは分からない。分かるまでは個人が神という流れを堰き止めるだろう。個人が流れそのものに融合したとき、まったく何もする必要がなかったことを知るだろう。存在というものの偉大さを知るだろう。このとき、存在するだけで奉仕になるだろう。したがって、奉仕とは、必ずしも肉体の活動を伴うものではないことを、物質界を超越することで理解するだろう。

よって学ばんとする者は、日々の正しい瞑想が奉仕であることを知らねばならない。この世の学校は、進歩した魂にはほとんど何の意味もないゆえ通うだけ無駄かもしれないが、瞑想学校だけはどうして欠かすことができようか。この世の馬鹿は、美術館で有名な画家の絵を見て素晴らしいと言う。それが偽物かもしれないのに! つまり、何が素晴らしいかを本当は分からないのではないのか。ピカソの絵が本当に素晴らしいのか。もし瞑想学校で上級生に近づこうものなら、何が素晴らしいのかをはっきりと知るだろう。何が美しいのかを我そのものとして味わうだろう。ナチスのようにいくら美術品を集めても全く美を理解しなかった連中が示しているように、どうして外の世界に美しいものがありうるだろうか。真我を知ったあとだけ、すべては美しいと言えるようになるであろう。なぜなら、すべては我、生命、神だからである。

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