ラマナ・マハルシ– category –
-
苦悩の果実
苦悩する生涯がある。ありふれた幸福すらその生涯には訪れない。「なぜかくも自分だけが」と我々は思う。激しく救済を求め、どこかや何かに答えを見出さんともがくが、苦悩の原因となっている事象がいつ終わるかは、その定められた宿命に関することであり、我々がどうこうできるものではない。通常、苦悩の原因を解消するために、我々は必死の努力を行うべきだと考えられている。貧乏ならば金を、非力ならば力を、弱ければ強さを、醜いならば魅力を、失ったならば取り戻すことを、我々は努力や意志や勇気によって... -
I AM
事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。 ヨハネの黙示録 21:6-7 これは瞑想者の言葉である。「I AM」がアルファでありオメガである。それは自我が目指していたものであり、最初から到達されていた真我である。これを信憑性の高い仮定として認める者は、瞑想し、きわめて無料、きわめて無労力、きわめて無学、きわめ... -
ラマナ・マハルシの「私は誰か」について
前回の記事にはとても違和感を持ちました。ラマナ・マハルシの弟子には何人も覚醒者がおり、弟子の弟子にも存在しています。いずれも「私は誰か?」という手法を通じてのものです。あなたはこれを知らないのか、「私は誰か? は逃避であり、物真似で到達することはない」と言い切っています。私自身も、「私は誰か?」を通して瞑想しており、効果を実感しています。そのため、前回の記事のマハルシに関する箇所は、何度読み返しても乱暴な断定だと思います。 マハルシの弟子の話はひとまず置いて、あなたは具体的... -
瞑想の実質に至る形式
瞑想についてですが、「苦悩の終焉」の質問者や多くの読者もそうだと思いますが、「瞑想」という言葉が指す形式が分からないのだと思います。つまり、私もそうですが、瞑想とは、何らかのメソッドや、目的に達するための方法というイメージもしくは先入観があり、そこから来る形式があるのではないかとの思いがあるように思えます。ようするに瞑想の実質、同一化をしないこと、静かにしていること、高位の波動に親しむこと、これらに至る方法ないし形式があるのではないか、との先入観があるように思います。Autho... -
意識と世界
ラマナ・マハルシは、世界は投影であると言います。それは具体的にどういう意味なのでしょうか。 例えば、私がこの文章を書いているとき、そこに意識を保っていなければ、勝手にあなたの見ている世界は私には存在しなくなります。つまり、マインドを通して見るときのみ、世界は存在するということになります。 世界は本当に存在していないのでしょうか。私には存在するため、かなり疑問に思われます。 存在の定義の問題であり、実在であるかと言われればそうではなく、存在するかと言われれば意識が何と同一化しど... -
瞑想と意識
自分の本質に覚醒することは、現象的努力を必要としない。悟りは達成されることも強制されることもできない。それはそうする機会が与えられるとき、観念による障害が止まるときだけ、起こることができるだけだ。……観念化を取り除く方法として、考えることを止めようと積極的に努力をすることも無駄な練習であるし、それ以外のほかの種類の「努力」もそうである。唯一の効果的努力は真実を瞬間的に直観的に理解することである。偽物を偽物と見れば、残るものが真実である。今、実在するものが消えるとき、今、不在...