瞑想と意識

自分の本質に覚醒することは、現象的努力を必要としない。悟りは達成されることも強制されることもできない。それはそうする機会が与えられるとき、観念による障害が止まるときだけ、起こることができるだけだ。……観念化を取り除く方法として、考えることを止めようと積極的に努力をすることも無駄な練習であるし、それ以外のほかの種類の「努力」もそうである。唯一の効果的努力は真実を瞬間的に直観的に理解することである。偽物を偽物と見れば、残るものが真実である。今、実在するものが消えるとき、今、不在のものが現れるのだ。それくらい単純である。

ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの p.147

マハラジは自身のところへ訪れる者を、ムムクシュ(俗世からの解放を熱望する者)ではなく、サーダカ(かなりの量の霊的な宿題をすでにやった真理の探究者)として見て、ここでは後者の者向けに話している。秘教的には前者は熱誠家、後者は見習いの弟子である。前者は努力することしかできない時期であるため、その努力をしたがる活力が燃え尽きるまで、悪いようにはならない努力、しかし決して真理に至ることはない努力が教えられる。それは努力が不必要であることを本人の新しい意識が知るまで続く。後者の段階では、「真実を瞬間的に直観的に理解すること1」、つまり「する」から「見る」への移行が求められる。そしてもっとも重要な箇所は、「今、実在するものが消えるとき、今、不在のものが現れるのだ」という箇所であり、錯覚は見ることで追い払うことができ、そこで知るのはすでに達成された意識である。これを表現するために、いくつか前の記事で、達成前の意識と達成後の意識は今すでに同じである、という書き方をした。ここが自我の盲点なのである。

ここに気づくことで、「する」ことでも「見る」ことでもなく、「在る」ことに落ち着くだろう。「私自身」を真に見たとき、すでに私は私であるものである。きわめて単純明快となる。一方で自我意識は、意識自体はその達成前であろうが達成後と同じであることを知らないため、意識の変容や、融合や合一といった観念と交わることで、未来に生き、現在をないがしろにしている。これでは見えないのである。

なぜ自我意識は、それが達成後の意識と異なると感じられるのだろうか。達成前も達成後も変わらぬ意識が、言い換えれば魂が、マインドと同一化しているからである。違うものを見ているという話である。自身を見るのではなく、自身が創造したもの、個人的な観念やイメージを見ているのである。それゆえ「私は在る」や「私は誰か」といった、自我とは反対の方向に向かうことがヒントとして与えられてきた。これをジュワル・クール覚者の言葉でいえば次のようになる。

瞑想とは、マインドの客観的な傾向や外向的な衝動を阻む過程であり、そうすることで、マインドは主観的になり、焦点化し、直観的になり始める。

アリス・ベイリー「新しい時代の教育」 p.33

阻む努力ではなく、阻む過程と書いてある。それは魂の瞑想過程であって、脳に対する自我の瞑想努力ではない。正しい瞑想において努力に伴う摩擦や苦痛が全く生じないのは、エネルギーとフォースが融合しているからであり、エネルギーに対するフォースの反乱、すでにある調和に対する無知ゆえの不調和の反乱がないからである。その過程はただ眺められるか、知られるだけである。不断の気づきがこの過程を統御している。意識自体が意識を統御している。それは魂であり、意識としての我々自身である。この純粋な意識を知るとき、我々は真我つまり生命という実存へと意識ごと吸収される。

努力がいらないことは朗報

自我は、自分で何かすることで存続するため、自分にできないことを嫌がる。方法がないこと、至る道がないこと、努力という手段を使えないことに戸惑いをみせる。しかし、もし努力が必要ならば、それこそが辛いことである。すでにあるものはないものと見なされ、現在ではなく未来という想念の中に自分なりの解放というイメージを交わらせ、これが結局は”達成できない自分”や”進歩のない自分”という約束された苦悩へ導く。自分で達成しようとしていることに気づかないのである。それはマインドや想念という魂の界隈における反社会勢力と関係をもっているからである。だからまことに、

マインドは真実の殺戮者である。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 下」 p.216

自我とは反対方向に向かうこと

同一化や客観化、対象化ではなく、その反対方向に向かうこともまた、努力ではない。つまり自我がすることではないが、ここで微妙なのは、融合し始めた自我がまだ自身を魂と認識できておらず、自分と魂という分離の壁が溶け合ったことにまだ満足する自分が存在しているにも関わらず、その心地の良さにただ留まっていることが正しいと思い込む時期がある点である。努力なしに魂として行うことが、まだ存続している自我感覚には残されているということが分からないため、一時的に進歩が止まってしまうのである。以下の文章はこの無意味な時期について書いてある。

アンターカラナの構築は、本質的に、統合され聖別されたパーソナリティーによる活動である。秘教徒は次の立場をとってはならない。つまり、自分たちが行わなければならないことは、魂との接触がある程度達成された後に自動的に起こる魂による活動をただ消極的に待ち、その結果、やがてアンターカラナの構築活動は、パーソナリティーとトリアッドの両方から反応を喚起するだろうという立場である。このようなものではない。アンターカラナの構築という仕事は主として、魂に助けられたパーソナリティーの活動である。これがやがてトリアッドから反応を喚起する。この時期、熱誠家はあまりにも怠惰な態度を示している。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 下 」p.64

このテーマは少し長くなるため、次の記事に分ける。要点は、多少の融合による意識の心地よさに騙されて、まだメンタル体の統御が完了していないという事実を忘れているということである。彼にはまだ三界で統御されねばならないフォースが目の前にあることを、魂の意識に魅了されるあまり、忘れているのである。この段階は、ラマナ・マハルシの定義によるならば、サヴィカルパ・サマーディで達成されるトゥリーヤと、ニルヴィカルパ・サマーディの間の初歩的なサマーディである。

トゥリーヤのなかではいくらかの想念がいまだに侵入し、感覚もある程度活動しているが、心が源のなかで溶け合ったという自覚がある。ニルヴィカルパのなかでは感覚の活動はなく、想念は完全に不在の状態である。それゆえ、この状態での純粋意識の体験は強烈で至福に満ちたものである。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.274

  1. この理解は、いわゆる頭で考えることとは異なる。自我は低位マインドを使い既知の概念を組み合わせることで把握を試みるが、霊的な視覚と知覚は、高位マインドさらには直観であり、それはむしろ低位マインドをしずめる能力に依存している。それゆえ、統御されたマインドは受容的な知覚器官ないし知覚媒体とみなされる。クリシュナムルティは「受動的な凝視」と呼んだが、それは融合に成功し始めたときから可能になる眉間における視覚・知覚であり、「ムムクシュ」ではなく「サーダカ」が達成するものである。 ↩︎
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