瞑想– category –
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閉じた目が開かれるとき
目を瞑ることと、目を開けることにおいて、意識に差が生まれるのは何故だろうか。瞑想で高位の意識に入る者も、瞑想が終わり日常に戻るとき、否応なしに自我的になるのは、目を開けたときに何を間違ったからであろうか。ここは誰もが理解しなければならない重要な点である。通常は、目を開けると見えるものと同一化し、つまり内向きであった意識が、見えるものの実在性を認める脳意識の自動的な習慣によって、外向きの意識に転換される。このようにして分離が始まり、瞑想中の個の喪失から、再び個が活動的になり... -

内なる平和運動
平和運動をしている人自体が平和ではない様子を見かける。反戦を唱えたり、平和を乱す言動に対して抗議やデモを行う人自体が精神的に不安定である様子を見かける。ニュースでは批判が仕事であるかのようなコメンテーターと、それに賛同したり反対したりする視聴者がおり、その双方においてはいかなる平和もない。裁く者は裁かれるだろう。分離する者には理解も愛も訪れないだろう。我々は、自身が本当は平和を知らないことをいつかは認める必要がある。自らの気の乱れにいかようもなく翻弄されており、悲しいばか... -

意識の欠損と道なき道
我自らは無である。生者と死者の区別は、通常、動いているか動いていないかである。肉体は原理ではない。動かす力を生み出す源ではなく、そのような力によって生かされている一時的な道具であるが、いったい誰の道具なのだろうか。人は体調によって「気力がない」とか「力にみなぎる」といった体験をする。元気な者も、病気になれば憔悴し、まともに動くことすらままならない。肉体は力の源ではない。医学はエーテル体を知らないため、肉体を原理とみなし、肉体の病気と健康を扱っている(と思っている)。という... -

眉間から生きる
眉間から天国意識に入ることができるならば、どこにいても、その場所が天国になることになる。これは、天国が場所ではないことを示唆している。ならば、我々は世界の中の場所にいるのであろうか。場所にいるのは肉体ではないであろうか。場所や世界は、意識の中にあるのではないであろうか。 世界は意識の中で変容する。肉体が世界のどの場所にいようが、意識が変容することで、そこがたちまち天国に変わる。つまり世界は意識に依存しているのである。世界の中の私と思われた肉体の私も、意識によって存在したりし... -

乱れる前の気
「気が乱れている」と言う。ならば、「乱れる前の気」とはなんのことだろうか。 私はこれだけでほぼ全てを説明した。あらゆる問題が解決されるものを完璧に指し示した。それ以外に知る必要のないものに接近するための道を一発で切り拓いた。人間つまり個人的な意識を持つ者たちは、みな気が乱れている。多かれ少なかれ、気が狂っている。乱れる前の気、狂う前の気とはなんだろうか。これを考えるとき、普通の人は、乱れた後の気を使って考える。乱れた後の気でどうこうしようとすることが努力である。ゆえに、努力... -

意識において距離などない
「遠隔」と人は言う。距離とは、目に見えている世界の話である。その場合、ローマとエルサレムは離れているなどと、場所と距離で物事を考える。しかし、世界はいつ生じたのか。意識が我々に起きた後である。夢のない眠りのとき、意識はメンタル界の高位亜界かそれ以上に焦点化しており、これは理由があって脳には記憶として持ち帰ることができない。意識が三界以下のものに順に降りて焦点化し始めたとき、相応に夢が生じ始める。物質界まで意識が降りてきたとき、夢から目覚め、我々は起床し、その後の世界を我々...

