瞑想– category –
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アートマ・ヴィチャーラ
「私は誰か」という問いが出るのはなぜか。真我を発見するため、という個人的な動機で問われるものではない。最終的な超越を妨げているのは「私」である。肉体がどの場所に行こうとも「私」は在る。この「私」から逃げられた者はおらず、夢のない睡眠中や失神中、昏睡状態といった無意識と呼ばれる状態のときだけ逃れられており、また自由である。我々の場合は、目覚めた意識でありながら、つまり「私」としての意識がありながら、その「私」から自由である意識や状態を達成しようとしている。通常の動機は、「私... -

ガラス玉演戯
魂は人間生活の三界に三重の表現を創造する。外的な形態、つまり二重の肉体(濃密な肉体と活力体つまりエーテル体)は、魂が――良きにつけ悪しきにつけ――同一化の反応を巧みに処理したレベルから発せられるあるエネルギーとフォースによって生み出され、創造され、動機づけられ、活性化され、条件づけられるのである。この文章に注目しなさい、我が兄弟よ。これらが人をその人であるところのものにしているのである。これらは彼に物質界における彼の体質、職業適性、特質を与え、衝撃を与える様々なタイプのエネル... -

真我探求の誤解について
ラマナ・マハルシであれニサルガダッタ・マハラジであれ、その本の中身は対話の書き写しである。それを「編者」が、様々な項目別に分けて、整理したものである。また、数多の対話の中から抜き取られた箇所は、編者の興味や関心、そして納得と理解の限界に依存している。「編者」が介在するとき、その本は「編者」流になる。偏るし、しばしば誤る。例えば、対話の前に説明文を自身の言葉で差し挟むとき、間違って解釈しているものが掲載され、初心者はそれを見て間違って覚えてしまう。誰も、自身がまだ知らないも... -

道とは私である
弟子道に限らず、求道、仏道、八正道、あるいは中道など、「道」の付く言葉は多い。一般的に、道とは歩むものであり、始点から終点へと歩を進める道程にして旅路である。しかし、この思想は霊的には誤りである。何度でも言うが、オカルトの格言は、「道を歩む前に道そのものにならなければならない」と言う。これは、霊的な道が、歩むとか、辿るとか、立ち向かうとか、跋渉するとか、いかなる行為でもないことを示している。つまり道とは、行為ではなく存在の状態なのである。霊的探求者のほとんどが、これを知ら... -

丹田や瞑想の危険に関する質問
私は瞑想のワークの一環として丹田に意識を置くことを何年も意識してきました。丹田に意識を置くと落ち着きます。ただあなた様のブログではみぞおちより下に意識を置くのではなく眉間に意識を置くよう教えられています。この違いに辻褄を合わせるような記事が見当たらないので質問させてください。 私の知るかぎり、現代における「丹田」の概念は霊的な概念ではなく、逆に物質的な概念である。例えば武術的な流れでは、つまり理に適った精緻で迅速な動きを前提とする理想的な重心としての意味を持つものであり、そ... -

唯一のルール
今も昔と同様に、弟子を拘束する絶対に曲げられないルールがただ一つだけある。つまり、低級性質を完全に高級性質に従わせなければならないというルールである。 H・P・ブラヴァツキー「実践的オカルティズム 」p.64 オカルティズムやエソテリックな文献を読み漁るとき、敷居が高く感じられる。とても自分には無理だと感じさせられる。相当難しい道であるように思え、絶望的な気分にさえなる。しかし私が発見してきたことは、実際はそうではないということである。この道は難しくない。むしろ最も自然な道であり、...

