瞑想– category –
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意識において距離などない
「遠隔」と人は言う。距離とは、目に見えている世界の話である。その場合、ローマとエルサレムは離れているなどと、場所と距離で物事を考える。しかし、世界はいつ生じたのか。意識が我々に起きた後である。夢のない眠りのとき、意識はメンタル界の高位亜界かそれ以上に焦点化しており、これは理由があって脳には記憶として持ち帰ることができない。意識が三界以下のものに順に降りて焦点化し始めたとき、相応に夢が生じ始める。物質界まで意識が降りてきたとき、夢から目覚め、我々は起床し、その後の世界を我々... -

真の瞑想暦
「今日は瞑想が上手くいかない」と人は言う。通常、人はそれを自分の責任だと考えている。結果、「私には瞑想ができない」と言い、その事実に落胆しさえする。私の言う瞑想は観照である。正しい瞑想とは観照状態である。そこには誰もいない。瞑想に責任を負う者という概念は存在していない。まず、瞑想を含めて何もかもが我々の責任ではないという基本的な事実についての深い理解が必要である。もし、自分の責任ではないことを知っているならば、瞑想の出来不出来に関してすら無関心であり、ただの観照があるだけ... -

楽しみの識別
意識は、形態や感覚知覚、外に向かう傾向に真の喜びや楽しみはないという事実に目覚め、ここから外に向かう傾向を徐々に撤去させ、霊を形態から抽出するための新しい努力が始まる。 アリス・ベイリー「魂の光」p.381 この世の楽しみには苦痛が内在している。楽しむためには魂や霊が犠牲にされなければならないからである。また楽しみを味わうことによるこの世の代償もそこには包摂されている。人間は快楽に溺れ続けることができないように設計されている。したがって結局のところ、楽しみは苦しみであるという認識... -

タイトルを拒む
自分が何物でもないことを知ることが解放であり自由であり至福である。名のつくもの、名をつけられるもの、概念化できるもの、想像しうるもの、自分がこれらのいずれでもありえないことを知ることが喜びであり平和である。人々の「知る」は知識であり想像である。だから真に知ることはない。一切の知識や概念や名づけうるものから自由になるべきであり、そのために放棄すべきである。知識を所有する者はその知識によって縛られるだろう。これが霊的自殺行為である。「私は何も知らない」が事実である。我々は朝起... -

駄目な人間
私はメンタルが弱く塞ぎ込んでいます。このような私の瞑想に希望はあるでしょうか。 メンタルが強い者でも不幸が続けば弱くなる。人間のメンタルは不幸の連続には耐えられないものである。したがって、通常は不幸と幸福は交互に訪れる。心配と安心も交互に訪れる。しかし、それはあくまで繰り返しであり、解決ではない。瞑想の先にあなたは解決を見い出すだろう。なぜならメンタルは超越されるからである。パーソナリティーが不幸なときでも幸福なときでも、常にあなたはそのような低位の感覚から自由であることで... -

I AM not X
私は到達できるでしょうか。 無理だ。あなたがI AM Xでないときだけ、すでに到達していることを知ることができる。 「私は魂である」とか「私は自我ではなく真我である」といった瞑想をしているのですが、それすらI AM Xになるのでしょうか。 むろん、そうであるが、重要なことは、あなたにおけるXは常に想念であることにあなたが気づいていない点にある。私は魂であるとか、私は真我であるとか、これらもまたI AM Xであり、マインドに騙されているときのみ生じる。名づけられ、命名されたものはすべて偽物である...

