瞑想– category –
-
北風と太陽
苦悩している人に至福状態を与えたとしよう。彼は何もいらなくなる。たとえ彼が悟りたいと思っていたとしても、そのような想念や欲求はもうありませんと言うだろう。お願いだから黙っていてください、静かにこの状態で存在させてくださいと言うだろう。もしくは全くの無言、全くの無反応だろう。 この至福状態はすでに与えられているが、知覚できないことが問題になっている。その結果、自我は修行や訓練や努力を強要させられている。世の中で苦しみ、不幸に疲れ果てて霊的な世界に来たのに、ここでも競争させられ... -
一
一つの意志があり、その顕現が現象面においては世界である。その部分である肉体人間は、分離した行為者ではない。行為は結果であり、一つの意志つまり一つのエネルギーが「すべての行為」の原因である。 エネルギーと、エネルギーが活性化するものを我々の具体マインドは分けて考察している。前者は命つまり霊であり、後者は物質つまり人間においては三重の諸体である。命が物質に拘束されるあいだ、そこに限定された意識が生まれる。すべての形態にはしたがって意識がある。我々が知っているのは人間の意識だが、... -
意識を超えて
一つの意識がある。現象面の肉体は様々であり、その一つを介して、意識が意識に語っているのであり、魂が魂に話しているのであり、外側の個人が個人たちを念頭に書いているのではない。これを読む人がどういう人かについてはまるきり関心がない。個人がどう解釈するかは、諸体の精練具合に左右されるが、本来なら言語ではなく直接的な交流、魂による魂への直接的な影響力の行使が望ましい。なぜなら、錯覚に陥っているのは個人ではなく魂だからである。錯覚に陥った魂が個我つまり本来の意味におけるエゴであり、... -
完全と希望
自我には希望が必要だろう。でなければ自殺してしまうから。このことを踏まえて、建前の話がしばしば必要である。「もしそうならば、それは私を絶望させる」と自我に解釈されないようにしなければならない。しかし瞑想で発見することは、完全性である。何も全く問題がないという本質である。この平和で、安全で、静かで、充足した高所に退き下がるすべを自我は魂に教わり、それが自分だと知り、次にそれすら違うことを理解させられる。魂は意識と呼ばれるものには関係しているが、生命そのものではない。逆に言え... -
一切無関係
こういう文章もまた、外側の人間が書いているだけであって、その光景つまり人々の言う行為と、魂そのものである私は無関係である。見た目は、ある人間が書いていても、その光景は世界の一部であって、独立した行為は存在しておらず、これを書かせる力と世界を動かす力が異なるということはない。これを読んでいる人たちもまた全体の一部であり、いかなる独立もなく、いかなる行為も想像や推測の中にしか存在していない。この肉体の行為に以前は個人として責任を感じていたからといって、そういうものがないことが... -
口実に生きる
個人に生きていないということは、他人も個人として感じていないということである。最初は自分という個人の反応と関係性を失う。こうして外観ではなく本質が私になるならば、姿や形の違う外側の個や分離の結果世界に焦点を合わせていないということである。もし深く感じることなく、定められた個人を本当に自分と思って何とか生きていられるならば、それは地獄である。絶えざる比較があり、優劣があり、それゆえ恐れに支配されねばならないだろう。なんと無意味なことか。結果が結果を変えるという理屈は存在でき...