瞑想– category –
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問題の解決
何を言われようが、何を質問されようが、興味があるとするなら一つだけである。なにが問題なのか。 欠落しているものが補われれば事足りるのだろうか。貧乏人が富み、病人が症状から解放され、絶望が希望に変わるとき、われわれは問題がなくなったと言う。それは両極端を往復する繰り返しである。われわれの生は、快楽と苦痛、幸福と不幸、欲望と恐怖を行ったり来たりするが、その終わりはない。むしろ交互の来訪が約束なのだが、好ましい一方だけを求める戦いが繰り広げられている。稀に、この幼稚な精神に弄ばれ... -
人知を超えた平和
何が起こったとしても内なる静けさをかき乱されない境地に達することは可能である。そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスである魂の中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配... -
仮想現実
われわれは、私という感覚を持ちながら自我の破壊を望むが、その方法には熱心であっても、私自体には無関心である。なぜなら、本当に私が見られたら彼の世界つまり信じたいものは終わってしまうから。日頃より、筆者がものごとを自作自演と呼ぶのは、自我の根底に、その自作自演を知る者がいるからである。それもまた私なのである。 悲しんでいる人がいる。肉体の現象で彼は泣いており、彼は嘆きに苦しんでいる。と同時に、彼はその現象を離れて内から見ており、なぜこれが起きているかを知っている。彼は自ら想念... -
エレメンタルの統御
誰も「それそのもの」には関心がない。パソコンを付けても、モニターが映し出すものを求め見るのであって、モニターそのものはではない。なぜなら、モニターそのものは欲望を満たさないからである。世界もまた様々なものを映し見せるが、世界の原因そのものは人間の欲望を満たさない。映像や体験は、人間のマインド、情緒や欲求、そして肉体を刺激し捉える。つまり人間は、自分自身(三つの低位顕現体)の形成者の意向通りに騒音をかき鳴らすフォース、すなわち諸体のエレメンタルの養分を供給することには熱心で... -
私は誰か
なぜなら、自己意識は徐々に移行してゆき、ついには小さな自我を超えた彼方にある「それ」に中心が定まるからである。……あなたは自分自身に「私は誰か」と尋ねなければならない。この探究が、最終的にはあなたの心の背後にあるそれの発見に導くだろう。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.107 真我と接触し共存している意識が「私は誰か」とは問わない。真我であることが分かりきった意識は真我に没頭しており、生命力を持つ残りの障害(ヴァーサナー)を調整するその自動作用にただ安らいでいる。この段階で瞑想... -
努力なき瞑想へ
想念が起こるたびに拒絶していくことにはきりがないとあなたは想像している。それは本当ではない。終わりは来る。もし油断なく、想念が起こるたびに拒絶するよう断固とした努力をつづければ、すぐにも内なる自己のなかへ深く、より深く入っていくのがわかるだろう。この段階に至れば、想念を拒絶する努力は必要なくなる。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.103 この引用には注意が必要である。そのまま受け取り、自我で強引に努力し続けるならば、脳に危険なダメージを与える可能性がある。「終わりは来る」。そ...