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両刃の剣の道――霊的な力を持つ危険
なぜ両刃なのか 以下のジュワル・クール覚者の文章における「両刃の剣」という用語の意味について解説する。 ひとたび魂の意識をもって生活し、(このような表現が許されるならば)あの「高所」に随意に達することができるならば、形態性質の浮き沈みが彼に影響を与えることはなくなる。そのとき彼は、物質生活の界層から魂の領域へと続く狭い両刃の剣の道に気づき、もしその道を着実に辿るならば、その道は変幻極まりない感覚の世界から、明るい日光の中へと、リアリティーの世界へと彼を導くということを発見す... -
気づかないでいよう
行為者感覚の消失 融合した者は、いわゆる「行為」に対して、ただ気づいているだけである。対照的に、融合以前の探求者は、常に「それをしているのは自分だ」という思考の中に生きている。彼の注意は行為そのものよりも、行為する自分という観念に吸い取られている。 魂として在る者――そのような意識には、行為者という思考は存在しない。「自分」とは記憶や知識に根ざした思考の束であり、意識それ自体は、いかなる出来事とも無関係である。そのため、魂の意識には、行為も経験も出来事も存在しない。言い換えれ... -
知性という障害
学者との対話 「理解とは分析と結論の産物ではないでしょうか」と或る学者は言った。彼のような知性は、思考を通じて理解しようとする習慣が染みついている。しかし霊的な真理は、思考を超えた領域にあり、思考を通じてアクセスできるものではないのである。 「しかし、歴史上の霊的指導者たちも行為や実践を重視していました」と彼は続けた。「もし観察だけで十分なら、なぜ彼らは教えを残し、何かを『する』ことを説いたのでしょうか。思うに、霊的な成長には、『内的な気づき』と『外的な実践』の両方が必要な... -
覚者を越えよ
魂の報酬 霊的な合一は、人間の苦闘に終止符を打ち、苦しむ能力をなくし、絶えることのない至福を享受させるに至る。それは分離がなくなるからであり、すべてのすべてが美しく愛おしくなり、地上に神の王国は復興され、その王国へ一人でも多くの兄弟姉妹を導くことだけが意志にして喜びとなる。しかし、合一まで至る者が極めて稀であることもまた由々しき事実にして謎である。いったい、なぜであろうか。到達を阻む原理を、我々は自身の態度に見いだす必要があるにちがいない。 神性の外部投影 霊的探求において、... -
苦痛は至福への門
イニシエーションの道において苦痛の大部分が打ち消される。それは、イニシエートが苦痛を避けようと努力するからではなく、望ましくない接触に対する形態の感受性が消え去り、それにより苦痛もまた消え去るからである。苦痛は形態の守護者であり、質料の保護者であり、危険に関する警告を発する。苦痛は進化過程においていくつかの明確な段階を示し、魂が自らを質料と同一化するための原理に関係している。この同一化が止んだとき、苦痛と病気、そして死もまた、弟子を捕える力を失う。魂はもはやそれらの要求に... -
アシュラムの波動と大師の波動
質問:様々な波動について ジュワル・クール覚者は、魂の波動と区別して、アシュラムの波動や大師の波動に接触できるようになると述べていますが、あなたの記事における「魂の波動」とは具体的にどういうものを指し、アシュラムの波動とはどう異なるのでしょうか? さらに、アシュラムの波動と個々の覚者(大師)の波動はどのように異なるのでしょうか? これらの記述が、私が確認した限り、これまでの記事には見つかりませんでした。 さらに、こうした波動の概念が、他の霊的な書籍や覚者の教えに見られないのは...