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意識の欠損と道なき道
我自らは無である。生者と死者の区別は、通常、動いているか動いていないかである。肉体は原理ではない。動かす力を生み出す源ではなく、そのような力によって生かされている一時的な道具であるが、いったい誰の道具なのだろうか。人は体調によって「気力がない」とか「力にみなぎる」といった体験をする。元気な者も、病気になれば憔悴し、まともに動くことすらままならない。肉体は力の源ではない。医学はエーテル体を知らないため、肉体を原理とみなし、肉体の病気と健康を扱っている(と思っている)。という... -

眉間から生きる
眉間から天国意識に入ることができるならば、どこにいても、その場所が天国になることになる。これは、天国が場所ではないことを示唆している。ならば、我々は世界の中の場所にいるのであろうか。場所にいるのは肉体ではないであろうか。場所や世界は、意識の中にあるのではないであろうか。 世界は意識の中で変容する。肉体が世界のどの場所にいようが、意識が変容することで、そこがたちまち天国に変わる。つまり世界は意識に依存しているのである。世界の中の私と思われた肉体の私も、意識によって存在したりし... -

乱れる前の気
「気が乱れている」と言う。ならば、「乱れる前の気」とはなんのことだろうか。 私はこれだけでほぼ全てを説明した。あらゆる問題が解決されるものを完璧に指し示した。それ以外に知る必要のないものに接近するための道を一発で切り拓いた。人間つまり個人的な意識を持つ者たちは、みな気が乱れている。多かれ少なかれ、気が狂っている。乱れる前の気、狂う前の気とはなんだろうか。これを考えるとき、普通の人は、乱れた後の気を使って考える。乱れた後の気でどうこうしようとすることが努力である。ゆえに、努力... -

意識において距離などない
「遠隔」と人は言う。距離とは、目に見えている世界の話である。その場合、ローマとエルサレムは離れているなどと、場所と距離で物事を考える。しかし、世界はいつ生じたのか。意識が我々に起きた後である。夢のない眠りのとき、意識はメンタル界の高位亜界かそれ以上に焦点化しており、これは理由があって脳には記憶として持ち帰ることができない。意識が三界以下のものに順に降りて焦点化し始めたとき、相応に夢が生じ始める。物質界まで意識が降りてきたとき、夢から目覚め、我々は起床し、その後の世界を我々... -

真の瞑想暦
「今日は瞑想が上手くいかない」と人は言う。通常、人はそれを自分の責任だと考えている。結果、「私には瞑想ができない」と言い、その事実に落胆しさえする。私の言う瞑想は観照である。正しい瞑想とは観照状態である。そこには誰もいない。瞑想に責任を負う者という概念は存在していない。まず、瞑想を含めて何もかもが我々の責任ではないという基本的な事実についての深い理解が必要である。もし、自分の責任ではないことを知っているならば、瞑想の出来不出来に関してすら無関心であり、ただの観照があるだけ... -

楽しみの識別
意識は、形態や感覚知覚、外に向かう傾向に真の喜びや楽しみはないという事実に目覚め、ここから外に向かう傾向を徐々に撤去させ、霊を形態から抽出するための新しい努力が始まる。 アリス・ベイリー「魂の光」p.381 この世の楽しみには苦痛が内在している。楽しむためには魂や霊が犠牲にされなければならないからである。また楽しみを味わうことによるこの世の代償もそこには包摂されている。人間は快楽に溺れ続けることができないように設計されている。したがって結局のところ、楽しみは苦しみであるという認識...

