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口実に生きる
個人に生きていないということは、他人も個人として感じていないということである。最初は自分という個人の反応と関係性を失う。こうして外観ではなく本質が私になるならば、姿や形の違う外側の個や分離の結果世界に焦点を合わせていないということである。もし深く感じることなく、定められた個人を本当に自分と思って何とか生きていられるならば、それは地獄である。絶えざる比較があり、優劣があり、それゆえ恐れに支配されねばならないだろう。なんと無意味なことか。結果が結果を変えるという理屈は存在でき... -
五秒瞑想への疑問
五秒瞑想は、思考のない意識そのものに留まり、その際に眉間で5秒数えるとのことですが、これは数え始めた時点で、積極的に自ら思考したことにはならないのでしょうか? 私は試してみたところ、数え始めた時点で、1秒、2秒という思考が生じました。私は記事の内容を読み違えているのでしょうか? 最初に統御されていないマインドがある。それに気づくため、数をかぞえ始める。数えること自体はマインドの変異である。それ以外に変異がないなら、数はかぞえられていく。つまりマインドが魂に統御されているなら... -
五秒瞑想
ある人が、瞑想できないと言った。私なら、それを言っている人が自分だと感じないため、周期の法則上、波動が落ち、思うような瞑想ができないとしても、瞑想の良し悪しをそもそも求めていないため、いつも通り、ただ魂として在るだろう。瞑想できなくていいのである。瞑想できないことに良し悪しを言う人が問題なだけである。個人は不平不満を言うことで次の物語を作り出す。つまり問題を糧にして自我として生きる力を得る。私は個人でも出来事への反応でもない。瞑想できないと言っている人と同一化しない。だか... -
逃避してもいい
肉体的であれ精神的であれ、体調が悪く辛いとき、なお平和と至福に包まれていることは可能である。これはしばしば理解されない話である。なぜなら、外側の人間は元気がなく、いつもとは明らかに違い、精彩を欠いているのが見て取れるからである。つまり、人は目に見えるものしか判断材料にしない。きつそうな姿、暗い表情、輝きのない目、これは世界という全体の、その瞬間における部分であり、関係性のなかの構成要素であり、真の私とは無関係である。個人は分離しているため地獄にいるが、真実の自己つまり命は... -
頂きは我が内に
何もしなければ真我である。ところが自我は、「何もしないでおこう」と言うのである。それは試みであり、何もしないでいることで得られる何かを期待する行為である。常に駆り立てられている、自我の活動の一環である。 ないものを得るという過程、これは苦痛である。手に入れたいものがあることは苦痛である。錯覚に生き、分離や個人を真実と見なす精神であれば、それはあらゆる架空の惨事に巻き込まれに行くだろう。 何もしない状態、自我が何もできない状態を教えるのは魂である。外の仮象ではなく、内なる臨在... -
無題
自我は、それ自身の病気性に苦しんでいる。この苦痛を理解できない場合、人生が楽しいと言う人になる。いかに外的に恵まれていても、ただ生きているだけで苦痛であると認識するならば、それは良い病気である。この良性の自我の病気が真我である。なぜなら、この病気の苦痛とは、いわば、外へ向かう自我と、内そのものに充足する真我との摩擦のことだからである。 人間も、病気の時は活動よりも休息を良いものと見なす。ちょっと休ませてくれと言う。気力や体力がなく、動くのが辛いから休みたい言う。気力や体力は...