-

タイトルを拒む
自分が何物でもないことを知ることが解放であり自由であり至福である。名のつくもの、名をつけられるもの、概念化できるもの、想像しうるもの、自分がこれらのいずれでもありえないことを知ることが喜びであり平和である。人々の「知る」は知識であり想像である。だから真に知ることはない。一切の知識や概念や名づけうるものから自由になるべきであり、そのために放棄すべきである。知識を所有する者はその知識によって縛られるだろう。これが霊的自殺行為である。「私は何も知らない」が事実である。我々は朝起... -

駄目な人間
私はメンタルが弱く塞ぎ込んでいます。このような私の瞑想に希望はあるでしょうか。 メンタルが強い者でも不幸が続けば弱くなる。人間のメンタルは不幸の連続には耐えられないものである。したがって、通常は不幸と幸福は交互に訪れる。心配と安心も交互に訪れる。しかし、それはあくまで繰り返しであり、解決ではない。瞑想の先にあなたは解決を見い出すだろう。なぜならメンタルは超越されるからである。パーソナリティーが不幸なときでも幸福なときでも、常にあなたはそのような低位の感覚から自由であることで... -

I AM not X
私は到達できるでしょうか。 無理だ。あなたがI AM Xでないときだけ、すでに到達していることを知ることができる。 「私は魂である」とか「私は自我ではなく真我である」といった瞑想をしているのですが、それすらI AM Xになるのでしょうか。 むろん、そうであるが、重要なことは、あなたにおけるXは常に想念であることにあなたが気づいていない点にある。私は魂であるとか、私は真我であるとか、これらもまたI AM Xであり、マインドに騙されているときのみ生じる。名づけられ、命名されたものはすべて偽物である... -

国籍を持つ命はない
日本という場の内側に沈む問題を語ることは、多くの人が抱いてきた自国への誇りを揺さぶる行為である。しかし、それは攻撃ではない。むしろ、愛の痛みから出る言葉でなければならない。長い年月のあいだ、私たちは「秩序正しく勤勉な国」「礼節を重んじる民族」として自らを語ってきた。だが、その自己像の多くは、敗戦と占領を経て形づくられた模造の鏡にすぎない。誇りとは、過去を飾るものではなく、真実を直視する力である。その力が今の日本では弱まっている。かつて美徳とされた忍耐や協調、勤勉は、思考を... -

超人思想
人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由なのだ。 ドストエフスキー 超人は、自身が不幸でも幸福でもどちらでもよく、無関心である。幸不幸の指標は別のマインドの判断か推測であり、超人自体は常に至福であり、幸福も不幸も知らない意識状態にある。 人間には、幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。 ドストエフスキー 幸不幸は表裏一体であり、片方がもう片方によって成り立っており、どちらかだけを掴めるものではない。見習いの弟子はこのこと... -

聖なる無責任
誰もが、自分に何らかの責任があると思い込んでいる。もし、我々に何かの責任があるというのなら、我々は永遠に自由にはなれないだろう。永久に責任を所有し、その責任に縛られることだろう。責任とは、自身が特定の個人であるという思い込みが存在するときにだけ、一時的に存在する錯覚である。例えば悪事を働いた結果として刑期を務める責任があると人は言う。あるいは、昨日酒を飲みすぎたから今日は二日酔いに苦しむという責任は妥当だと人は言う。病気になったら治るまでは病気に耐えなくてはならないはずだ...

