-
クリシュナムルティの解読
経験する人と経験されるものの一体性 以下の動画で、クリシュナムルティは、他者に対して憎悪を持つ苦痛を抱える質問者に対し、「憎悪」と命名することが問題であり、「憎悪自体」を見るとき、「憎悪している人」と「憎悪という感覚」が一体であることに気づき、「この統合が必要であり、この問題に正面から取り組まねばならない」と締めくくっている。 https://www.youtube.com/watch?v=uhNp6Umw42c&ab_channel=%E7%9C%9F%E5%A4%A9 普通の人にはこれはできない クリシュナムルティの問題は、様々な霊的メカニ... -
意志に定むる魂の弓
魂の発見以後 魂を見出した後は、魂として存ることが目標になる。魂が新たな自分であるためには、マインドの活動を滅し、存在そのものへの自然な集中に意識を焦点化し続ける必要がある。これは、融合を安定させるための時期であり、これにも通常は何年もかかる。この時期が長くなるか短くなるかは、魂に対する真剣さに依存する。 前の記事で、意図的に「気づきに引き戻そう」とするならば心の強化になると書いたが、この段階の内なる存在への意識の引き戻しはその逆で、心の弱体化にしかならない。まず、本物――ブ... -
苦闘の終焉
苦闘を伴う探求の終焉 多くの弟子たちが苦闘している。苦しみながら道を歩んでいる。我々は、この時期が一時的なものであることを知る必要がある。瞑想で真の自己と接するようになるにつれて、非自己に対する「聖なる無関心」が発達する。それは、それまでの非自己とは自分が関係がないという感覚・意識を伴わせるものである。かくして、個人的な反応との同一化がなくなり、よって個人的な反応がなくなるということは、苦しみもまた存在しなくなるということに希望を抱こうではないか。現在はまだ苦しみを伴うであ... -
瞑想は、あなたの努力とは無関係である
瞑想は努力でも人格磨きでもない あまりにも熱心に、精力的に、猛烈に、霊的な生活に励まないようにしなさい。霊的な生活とは存在の状態であって、達成の状態ではない。それは、正しい方向を向き、そちらに方向づけられている状態であって、ある基準に達しようという苦痛に満ちた劇的な努力ではない。……我が兄弟よ。どうして自分自身についてそれほど考えるのですか。「悪い自分だけでなく、善い自分も排除して、キリストだけが見られ聞かれるようにしよう」という言葉を自分自身に対して引用したことはないのです... -
覚者の言葉が響いても、誰も悟らないのはなぜか
新時代の悲劇 かつてこれほど多くの人々が自己探求に心を開いた時代があっただろうか。書店には精神世界の書籍が溢れ、覚者の言葉は広く流布し、瞑想や霊的な探求が一般的な関心事となった。しかし、もしこの時代においてすら、真に達成する者がまず存在しないのだとすれば、何か根本的な誤謬が存在していることは疑いようがない。 多くの者が覚者の書を貪るように読み、数え切れぬほどの金言に心を打たれ、それを糧にさらに百冊の書を読み漁る。熱烈なまでに到達を切望し、日夜瞑想に励み、求道の歩みを止めるこ... -
師弟関係の超克
質問:弟子の区分について 見習いの弟子や受け入れられた弟子という区分についてですが、真の覚者はそのような区分を否定しています。アリス・ベイリーの著作はいくつか目を通しましたが、ラマナ・マハルシのような覚者の教えとは根本的に相容れない教えであると感じます。この点について見解をお聞かせください。 「見習いの弟子(Probationary Disciple)」と「受け入れられた弟子(Accepted Disciple)」という概念は、ジュワル・クール覚者が整理した概念である。 見習いの弟子とは、霊的な道に入ることを目標...