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瞑想問答
なぜ人は瞑想するのだろうか。 何か問題があるのだろう。何かを求め、また何かを恐れているのだろう。 瞑想で、そのような個人の問題は解決するのだろうか。 解決する。ただし、個人としては解決しない。彼は、自分が個人ではない存在として解決を見る。それは、「どのような問題とも関係がない」という感覚が発達することによってである。 その感覚は誰の感覚なのか。 誰ではない。個人だった者が、個人を成立させていたものと関わらなくなることで、個人ではなくなるだけである。 その「個人を成立させていたも... -
瞑想論 -形態の破壊-
前文 真の瞑想は知的なものである。理想や観念に漠然と向かうものではなく、また理論を梯子にする固定的な方式に縛られることもない。より啓明された自我、つまり高位亜界の物質を組み込んだ人間による瞑想は、そのときに同一化し閉じ込められている形態の認識と破壊を意識的に行うものである。これは、自我意識からすれば魂と共同で行う作業であるが、実際に知的であり実際に形態を粉砕するのは魂である。自我はみずからの意識を生み出す原因である形態を知覚認識し、アジュナ・センターから魂エネルギーつまりコ... -
門
それはただ美しい。何もかもが美しいならば、法則もまた美しいのである。それは完全ゆえに美しい。おのれを不完全と見なす者は、瞑想によってここに辿り着くだろう。それは在り、それしかないが、瞑想すれば運ばれるだろう。自我はここに来れない。人間として辿り着こうと抵抗してはならない。この宮は在るが、門を叩くとき、「私は何某だが」と言っても反応はない。手ぶらの者、所有せぬ者、裸の者だけが迎え入れられる。ここは名を持たぬ者、限定せぬ者、白痴や赤子のような「染まってない者ら」が、ただ無邪気... -
われ光なり
瞑想は独学である。誰も教えないだろう。外的な教えは知識として人間を満足させるが実践には向かない。それは自身が見て体験した知恵ではないからである。独学とは、自我が魂から学ぶという意味である。魂の声は沈黙の声である。この声は、人間の騒音がかき消された時に聞こえるようになるだろう。人間の騒音とは、アストラル体とメンタル体の騒音のことである。これらのフォースは通常、暴走している。あてどなく彷徨う亡霊であり、愛に飢えた狼、生きることで苦しみを表現する飽くなき涙である。獣に理性を与え... -
2. この合一は、サイキック性質の征服とチッタ(マインド)の抑制によって達成される。
アリス・ベイリーによるパタンジャリのラージャ・ヨガ、第一の書のスートラ2である。このスートラには合一における本質的な重要事項つまり前提条件が二つ述べられている。 アストラル体の統御。本書では「気まぐれなサイキック性質の統御」と書いてある。サイキック性質とはカーマ・マナスのことである。単純訳では、カーマは欲望や情緒、マナスは知性であり、したがってカーマ・マナスは欲望知性、すなわちマインドによってかすかに色づけられた情緒体(アストラル体)である。我々は感情や欲求つまりアストラル... -
自我の破壊
前文 自我は、瞑想で何かをすると思っている。自我は何かをされる側である。そのため、「私」や「意識」へ注目を向けるというアイディアが提唱されてきた。しかし言語や手法は瞑想に通用しない。行為は瞑想ではない。自我の訓練や意図は早い段階で捨てられ、去るものである。やがてこれが知られるだろう。瞑想そのものが教えるだろう。思考との無闇な同一化が過ぎた後、フォース体でしかない「私」という形態に破壊の照射が可能になる。 目覚め 瞑想過程 1 2 3 向き 結果 初...