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門
それはただ美しい。何もかもが美しいならば、法則もまた美しいのである。それは完全ゆえに美しい。おのれを不完全と見なす者は、瞑想によってここに辿り着くだろう。それは在り、それしかないが、瞑想すれば運ばれるだろう。自我はここに来れない。人間として辿り着こうと抵抗してはならない。この宮は在るが、門を叩くとき、「私は何某だが」と言っても反応はない。手ぶらの者、所有せぬ者、裸の者だけが迎え入れられる。ここは名を持たぬ者、限定せぬ者、白痴や赤子のような「染まってない者ら」が、ただ無邪気... -
われ光なり
瞑想は独学である。誰も教えないだろう。外的な教えは知識として人間を満足させるが実践には向かない。それは自身が見て体験した知恵ではないからである。独学とは、自我が魂から学ぶという意味である。魂の声は沈黙の声である。この声は、人間の騒音がかき消された時に聞こえるようになるだろう。人間の騒音とは、アストラル体とメンタル体の騒音のことである。これらのフォースは通常、暴走している。あてどなく彷徨う亡霊であり、愛に飢えた狼、生きることで苦しみを表現する飽くなき涙である。獣に理性を与え... -
2. この合一は、サイキック性質の征服とチッタ(マインド)の抑制によって達成される。
アリス・ベイリーによるパタンジャリのラージャ・ヨガ、第一の書のスートラ2である。このスートラには合一における本質的な重要事項つまり前提条件が二つ述べられている。 アストラル体の統御。本書では「気まぐれなサイキック性質の統御」と書いてある。サイキック性質とはカーマ・マナスのことである。単純訳では、カーマは欲望や情緒、マナスは知性であり、したがってカーマ・マナスは欲望知性、すなわちマインドによってかすかに色づけられた情緒体(アストラル体)である。我々は感情や欲求つまりアストラル... -
自我の破壊
前文 自我は、瞑想で何かをすると思っている。自我は何かをされる側である。そのため、「私」や「意識」へ注目を向けるというアイディアが提唱されてきた。しかし言語や手法は瞑想に通用しない。行為は瞑想ではない。自我の訓練や意図は早い段階で捨てられ、去るものである。やがてこれが知られるだろう。瞑想そのものが教えるだろう。思考との無闇な同一化が過ぎた後、フォース体でしかない「私」という形態に破壊の照射が可能になる。 目覚め 瞑想過程 1 2 3 向き 結果 初... -
アストラル体の扱い方
アストラル界の自覚 人類は欲求(良い欲求、利己的な欲求、間違った欲求、霊的な欲求)に条件づけられている。 アリス・ベイリー「秘教治療 上」 p.214 現代の探求者における主要な課題はアストラル体にある。この界層に囚われている限り、あらゆる感情や欲求が現実感を伴い、肉体を支配し動かす。我々は欲求体が静止した状態を知らず、その静謐のもたらす魂の報酬に気づくことも少ない。むしろ、我々はしばしばアストラル・フォースそのものである霊的欲望の犠牲者となる。そして、望まれる達成がないとき、霊的... -
成長と助力
前の記事で不正確つまり不用意な発言があったため幾らか削除した。それらの意図は、前線に茫漠と広がる難易度に対する消極的な諦めの打破であった。また、神秘的な体験が強調されるあまり、自我の新たな欲望へと堕落しがちであり、現実的な目標ではなく、霊的野心の体験へ向けられた欲求と想念の私的な形態が瞑想を妨害し、自身を危険にさらしていることを示すことにあった。しかし正確に言うならば、確かに、自我意識の見地からは超越的な体験つまり意識状態はあるだろう。また、細分化するならば条件つまり前提...