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1か0か
何がわれわれの進歩なのだろうか。間違った自分で何万回生きても、ゼロにいくつ掛けてもゼロのようなものである。ゼロに関与することは錯覚である。ところが、ゼロに一を足す努力をしたり、二や三になるような生き方を小さい頃からわれわれは世の中で強いられている。真実の世界では、一に何を足しても一である。足すことのできる我で生きても、それが死ねばすべて足したものは失われる。足し算で生きた生涯をいくつ数えても、毎回、現象世界で足したものは失われているのだから、ゼロのままである。これに気づく... -

「見る」の意味
この惑星周期における人間に限った進化の目的は視覚である。それは、魂と接触したときに魂からパーソナリティーへの大きな贈り物である霊的な知覚で頂点に達する。これは、引きつける愛の感覚を伝え、ものごとの性質を示し、意味の世界を明らかにし、光と知識と究極的なイルミネーションという偉大な贈り物を与えてくれる。神秘家と熱誠家と誓いを立てた弟子の目標はこのようなものである。 アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」 p.374 「見る」という意味が分からない、もしくは「見ているのだが見えな... -

無所有
今日は瞑想できない、深い意識に入れないと個人は言う。大なり小なりの周期の法則は、外的人間に適用されるものであり、したがって乗り越えられる。問題があるとするならば、その日その日の瞑想の具合に左右される個人との同一化である。個人は、ただ記憶に生きている。あのときの意識に入れないと言うが、記憶が理想になり、現実が不平の対象になるならば、その理想が邪魔して現実は見えなくなる。こういうときは、まず瞑想できなくていいことを思い出す必要がある。良い瞑想を求めるのは自我であり、われわれは... -

花のように生きる
教師が、真我の認識のためにマインドの統御を教えたならば、われわれは思考が生じることに何らかの方法で対処しようとする。こういうことが瞑想だと一般には言われているが、内在の一者と融合するにおいて、何かが駄目だとか、良くないとか、逆にどうあるべきだとか、そのような判断をさせる知識や価値観からは自由でなければならない。われわれは瞑想中、思考を雑念といって嫌うが、それは頭の中の理想と現在の自分が違うという感覚や想念を前提としている。その一方で、教師方は、すでにわれわれは真我であると... -

捨ててしまえばいい
人を見てみてほしい。例外なく、たくさん背負っていることを観察できる。なかでも最悪なのが、自分という重荷である。歩いているのは肩書や人格や名前である。生まれてこのかた主張を重ねられてきた執着やプライドや恐れなどが、その人というひとつの大きな想念の結晶となり、その自分という巨大で強大な思い込みが人を果てしなく掴み、固く、そして重くさせている。足し算で生きる悲しみが地上を覆っている。付け加えるものがひとつでもあるという信念が人から内在の無垢との接触を阻みつづけている。霊的なもの... -

焦点化
眠りから覚めると、人は何かを訴える。今日は不調だ。どうも胸焼けだ。嫌な事を思い出して学校や職場に行きたくない。あるいは良いことが期待されるので気分がいい。……つまり、起きてすぐ手遅れである。胸焼けの人を例にとってみよう。実際、そのように言う者が先日いた。それで、胸焼けにいつ気づいたのかと聞いた。起きてすぐだと言う。じゃあその前は。夢を見ていた。そのとき胸焼けはあったのか。なかった。ならば「あなた」は、現実のときだけ胸焼けで、夢のときは胸焼けにならないのか。たぶん、夢のときは...






