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天国と地獄
子供の頃、死んだら天国か地獄に行くと誰かが説いていた。いま、私は生きているが天国におり、見えるものが地上だろうが、どこであれそこが天国である。人間の見た目は千差万別だが、同じ意識を生きていると考えられている。人間の意識は「その人」に依存しており、万人が異なる意識に生きている。そのため、各々の意識に沿った道と教えがあるのであって、行き着くところは同じでも、至る過程は意識によってまた千差万別である。 真我は私の意識を天国に住まわせ、一つの命、一つの「共同体」に喜ばせているが、出... -

厳しさに許しを
多くの人が自分に厳しすぎる。価値観と理想に縛られているのである。間違った厳しさは、柔らかさを失わせ、他人への厳しさへと変換させられる。我々に愛がないのは、自分に対する厳しさゆえであり、自分の多くを許せていないからである。あらゆる段階のつまづきは、この自己中心にあることを覚えておくべきである。自分への厳しさは、自己中心だと気づかねばならない。どうあるべきだ、という自我の決めつけや価値観から自由なときのみ、自分も含め、すべてを許し愛することができるものである。価値観ゆえに固く... -

そのどちらでもないもの
今日、ある人が「嬉しいです」と言った。感じるのは、その瞬間に嬉しくないものを自ら構築した、という残念な認識である。別の例を挙げてみよう。子供たちに野球を教えている男が、試合に負けた少年へ向かって、一試合負けたくらいで落ち込むなと怒鳴っていた。その後、この男は、試合に勝ってどの少年よりも喜んでいたのである。これほど無知な男が何を教えうるだろうか。嬉しいことがあるから、嬉しくないことがあることを理解する必要がある。道の初心者つまり自我が最初に習うことは、相反する対をなす両極(... -

北風と太陽
苦悩している人に至福状態を与えたとしよう。彼は何もいらなくなる。たとえ彼が悟りたいと思っていたとしても、そのような想念や欲求はもうありませんと言うだろう。お願いだから黙っていてください、静かにこの状態で存在させてくださいと言うだろう。もしくは全くの無言、全くの無反応だろう。 この至福状態はすでに与えられているが、知覚できないことが問題になっている。その結果、自我は修行や訓練や努力を強要させられている。世の中で苦しみ、不幸に疲れ果てて霊的な世界に来たのに、ここでも競争させられ... -

一
一つの意志があり、その顕現が現象面においては世界である。その部分である肉体人間は、分離した行為者ではない。行為は結果であり、一つの意志つまり一つのエネルギーが「すべての行為」の原因である。 エネルギーと、エネルギーが活性化するものを我々の具体マインドは分けて考察している。前者は命つまり霊であり、後者は物質つまり人間においては三重の諸体である。命が物質に拘束されるあいだ、そこに限定された意識が生まれる。すべての形態にはしたがって意識がある。我々が知っているのは人間の意識だが、... -

意識を超えて
一つの意識がある。現象面の肉体は様々であり、その一つを介して、意識が意識に語っているのであり、魂が魂に話しているのであり、外側の個人が個人たちを念頭に書いているのではない。これを読む人がどういう人かについてはまるきり関心がない。個人がどう解釈するかは、諸体の精練具合に左右されるが、本来なら言語ではなく直接的な交流、魂による魂への直接的な影響力の行使が望ましい。なぜなら、錯覚に陥っているのは個人ではなく魂だからである。錯覚に陥った魂が個我つまり本来の意味におけるエゴであり、...






