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二元超えて愛
瞑想を重ね、真我を探究する一方、我々は他者を必要とする。交感の中においてこそ、生命の実感を得る。もし物語がただ「我のみ」にて編まれんとするならば、そこには何らの劇もなく、孤立せる自我は困窮するばかりであろう。いわば、主演たらんとする欲求は満たされることなく、孤独すら他者の存在を前提とする。人は己の周囲を巡る世界や星々を離れることを許容せず、それこそが本質を表している。要するに、相互依存の一切から外れよと我々は説く。 これをもって慈悲や相互扶助の精神を否定するものではなく、ま... -

闇のテスト
「八方塞がりである。どうすれば良いか分からない。わたしは正しく前進しているのだろうか。間違ったやり方に再び陥ってはいないだろうか。何も見えない。わたしは目の前の問題に圧倒されている」 これが、前進中の弟子の言葉である。暗中模索。もう自分にできるとは思えない。しかし前進するより他にない。苦痛は拠り所である。それは何らかの間違いを警告してくれる上、それそのものを見ることで答えを教えてくれる。つまり、自身のどのような態度が苦痛の原因であり、何を求めたがゆえの摩擦であり苦痛であるか... -

我を砕く
不幸な人は、幸福を信じているから不幸があることを認める知性が必要である。幸福感は、個人的な反応であり、分離した自我の目標でしかない。それは何のコントロール下にもない。環境や出来事に応じて生じる、自我の情緒的な反応にすぎない。不幸もまた同じである。希望や、達成や、意気消沈や、苦悩といったものも、個人の利己的な反応でしかないという認識に早く到達すべきである。つまるところ、自我にまつわる一切の反応は無視されるべきである。これらの保育的な感覚に捉えられている人間を魂の位置まで引き... -

進化段階
進化段階について落胆したり、あまり考えたりすべきではない。人間は現在の進化段階を突き止めることはできても、潜在的な進化段階を突き止めることはできないからである。進化段階について気にすること自体が情緒的であることは別にしても、現在の到達基準で制限をかけ、自己憐憫に屈服することは単に自我を強めるだけである。 いま、目の前の課題に取り組むことで解消され、それによって得られる報酬こそが、自身にとって現状は最高の報酬であるということはしばしば忘れられている。例えば、苦痛というアストラ... -

瞑想の実践 -意識から実在へ-
瞑想の条件 われわれは、真理の探究と言うが、そのじつ、求めているのは安楽や個人的な利益であり、霊的な現象を絶えず求めることでしばしば時間を浪費する。この不誠実は瞑想において深刻な障害を築く。こうした自我の情動が騒音となり、真我の感覚を妨げるのである。自らの欲求や観念の犠牲者となり、進歩がないことに苦しむようになる。師を渡り歩き、精神の穴を埋めてくれる教えを探し回り、霊的なビジネスマンを覚者と思い、被害に遭うことは決して珍しくはない。 精神とはこのようなものである。自分に隠れ... -

目に見えない世界へ
例えば個人の欲求について。われわれは外的なものを現実として見ている。何かが欲しいならば、そのモノの形象が想像力とさらなる欲求を掻き立て、その引力の強弱に応じて無防備になったり理性を働かせたりする。これに対し瞑想者は、欲求の感覚を明確にフォースとして捉える。目に見えるものではなく、その背後の目に見えないものを扱う。欲望が見せる想像力や引力に抗うのではなく、欲求として認識される形態をのフォースを見て捕まえ、高位のエネルギーでその低位のリズムを置き換える。 苦痛の例 これらのフォ...






