アストラル瞑想からの自由

実践的瞑想法では、アストラル体の統御が課題である段階については書かなかった。この記事では、その段階の瞑想で何をなしうるか、どうあるべきか、考えてみたいと思う。まずは、アストラル性質の代表的なものからいくつか見てみよう。

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動機が欲望

そもそも、アストラル体に偏極している状態とはなにか。アストラル体は欲求体である。例えば霊的な野心が動機で瞑想する段階もある。悟りたい。解脱したい。自我を超越したい。クンダリーニの火を覚醒めさせたい。ワンネスやサマーディーを体験したい。進化段階を高めたい。チャクラを開きたい。超能力やシッディを身につけたい。特定のイニシエーションを受けたい。特定の覚者の弟子になりたい。霊的な救世主や教師になりたい。このような具合である。

要は、現実世界が惨めだから、霊的世界におのが空虚を満たす何かを求めるのである。瞑想するにはあまりに利己的であり、危険である。邪悪な動機による瞑想が、個人に災難を引き起こしかねないことが教えられ、場合によっては瞑想は怖いものであることが知られる必要がある。なぜなら、このような動機つまり波長は、アストラル界の低位の存在の注目を引きつけ、攻撃の対象とさせる場合があるからである。何人も瞑想で憑依された人たちを我々は見てきたではないだろうか。アストラル界の裂け目は閉じられねばならない。したがって、正しい性格、正しい動機、正しい生き方、これらの意味を理解し、生活では身口意に気をつけ、兄弟姉妹への愛と思いやりに生き、不純を浄化することが当面の目標である。

欲望に捉えられるとき、何が起きているのか考えてみよう。ある理想が個人の興味をそそり、欲求をかきたて、現在の自分から理想の自分へ移行したいという意欲が生じる。意志が欲望に解釈されたとき、意欲になる。A地点からB地点への努力が始まる。本当の瞑想は、B地点への移行を主張する個人を無視し、さらにはA地点つまり現状に不満を抱く自我をも無視して、AでもBでもない真我に留まることである。この段階では魂や魂の波動を(自身の騒音ゆえに)知覚できないため、自分が肉体を持つ個人であると本当に思っている。その個人として瞑想し、その個人が瞑想で変容したり、何かを得ると思っている。すでに真我であることが分からないのである。

動機が恐れ

欲望に執着させるのは恐れである。欲望だけが存在し恐怖はない、という状態はない。両者は相反する一つの対であり、同じものである。欲望はありのままの自分からの逃避であり、現状への不満である。不満の根底には大なり小なり恐怖がある。これもまた個人的なものであり、分離した自我や世界に巻き込まれているために生じる自作自演である。とはいえ恐怖を感じているときは現実的であり、したがって助けられねばならない。その後、真我を知る手伝いをすることで、錯覚から自由な状態に安定させる必要がある。やがて、二度と恐れなくなるだろう。

動機が苦痛

アストラル体を現実的に言えば、情緒体や感情体や感覚体である。そして、霊的な世界に導かれる多くの人々が、苦痛の感覚に打ちひしがれている。私はこの部類に属していた。苦痛の解決法が瞑想でしかなくなるとき、瞑想に成功し苦痛を超越するか、失敗して自殺するかの二択になる。この精神は失敗する精神である。苦痛からの強烈な逃避であり、苦痛への恐怖であり、苦痛でない状態への欲望である。この苦痛も個人的なものである。体験している本人にとっては切実な悩みであるため、助けられねばならない。世界中から苦痛を根絶しなければならない。なぜならそれは地獄だから。苦悩する個人の背後の一者が教えられ、知られるために我々は本質面から手伝わねばならない。

この段階での瞑想

基本的には瞑想にならない。個人は、何かをつかむため、もしくは何かから逃れるために瞑想するのであって、魂ではなく個人にしがみついている。欲求や情緒や恐れが個人を支配しているが、魂として魂にしがみつくのが瞑想であり霊的な集中状態である。したがって、まずは個人が瞑想とは何の関係もないことが理論的であれ教えられねばならない。しかし、本人は自我の感覚しかないため、どうしても個人的な動機から何であれ行為をするのである。このどうしようもない状態で、自我はどうすべきなのだろうか。何ができるのだろうか。普通は、何もできないことを理解するまで努力することになる。なぜなら、個人は行為することしかできないから。

例えば、ニサルガダッタ・マハラジの本を読み、「私は在る」を学んだと個人は思う。そして「私は在る」と瞑想で言い、「私は在る」という感覚を見つけようとするか、在ろうとする。魂と接触していれば、魂の位置からただ在ることができるが、自我は在ろうと試みることしかできない。在るは無為であり、在ろうとするは行為である。自我はこうして真我を妨害する。

瞑想の挫折と葛藤

A地点からB地点を目指す瞑想は失敗に終わる。何も見えないため、瞑想をするのが個人と思い込み、思考と情緒に巻き込まれ、つまり統御されていないアストラル体とメンタル体に支配されたまま、自分が何もできないこと、失敗したこと、見込みがないことに絶望する。最後の望みが霊的な世界だったのである。聖者方が約束したその瞑想すらも、私を見放したのだと個人は嘆き、自身の無能性を悲観したり、まだ力がある場合は真剣さが足りないと解釈し、さらに自我で努力をしようとして、禅寺かアジアの施設か、信頼できそうな場所や師を血まなこで探し、長時間瞑想に打ち込み、ひどい頭痛や脳細胞の損傷に見舞われ、肉体か精神を患い、病院通いになる。それでも個人の欲望や逃避を諦められない場合は、発狂や自殺へ向かう。だから、早めに助けられねばならないのである。危険な兆候があれば、初期段階で厳しく正されねばならないのである。

真の瞑想を知る

そのためにアストラル体を統御するのである。これは自我で出来るようになる。しかし、自我単体ではできない。魂の波動つまりエネルギーが必要になる。瞑想ができるようになるため、魂との接触を目指し、また魂と接触できるようになるため、瞑想するのがこの段階である。

自我は瞑想するが、その内容は、何が瞑想でないかを知ることである。必然的に、瞑想を妨げているのが自分であることを知るようになり、自分とは何かを知ることが瞑想となる。とはいえ、結局のところ、自我感覚しかない時期は何もできない。そして、何もできないでいいのである。おかしなことである。何もしないでいいことを知るために、我々は瞑想し、悩み苦しむ時期を経験するのだから。

基本的に、苦痛を感じるときは失敗している。分からなくなったら瞑想をやめ、何かリラックスできる個人の趣味に戻った方が健康的である。最初は高位の波動に耐えられないため、感じなくとも脳細胞は瞑想で緊張にさらされることになる。最初の頃、一回あたり40分で、私の場合は瞑想をやめるよう魂から促された。それでまた自我で普通に生活した。後に、アリス・ベイリーの書物で初心者は40分で良いと書いてあった。だからその程度の時間がせいぜい安全なレベルなのだろう。

重要なのは、できる分だけやることである。五分でもいい。逆に、無理をしてはならない。急いではならない。多くの人が瞑想を諦める理由は、最初のうち、瞑想が徐々にしか進展しないからである。途中から、つまり魂とそれなりに融合するようになったら急速になる。だから欲望瞑想は諦めて、それが正しいからという理由で瞑想をただ適度に穏やかに日々積み重ねることである。長くなりすぎるので一旦ここで終わり、関連するジュワル・クール覚者の言葉を最後に引用しよう。

一度に何時間も強烈な瞑想過程を行うことや、肉体の火を喚起し、特定のセンターを目覚めさせ、蛇の火を動かすことを目的にした実践をやめるよう、いくら強調しても強すぎるということはない。……過度に瞑想を行い、狂信的な食生活を行い、睡眠時間を短縮し、サイキック体験に対して必要以上に興味を抱き強調することは、精神のバランスを乱し、しばしば取り返しのつかない害悪を及ぼすことになるであろう。

……着実で静かな、感情的ではない活動に取り組むようにし、学習や瞑想に何時間も連続で没頭することは慎みなさい。諸体はまだ必要な緊張に耐えることはできず、自分自身に損傷を及ぼすだけである。日常の義務や奉仕に追い立てられながらも、自分が本来誰であり、自分の目的と目標が何であるかを思い起こしつつ、正常で多忙な生活を送るようにしなさい。

十五分という長さから始め、決して四十分を超えないよう、毎朝規則正しく瞑想しなさい。奉仕に専念し、自分自身の霊的な発達に関心を集中させないようにしなさい。適度な学習によってマインドを鍛え、知的に考えるようにしなさい。そうすることで、マインドは情緒とバランスを保つと共に、認識が高まり意識が拡大するにつれて、自分が接触するものを正しく解釈できるようになる。

アリス・ベイリー「ハイラーキーの出現 上」p.36
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