ラマナ・マハルシは沈黙の教えを重視した。それが分からない質問者に言語を使用した。
私は誰か
「私は誰か」、それを見出しなさい。純粋な「私」は実在であり、絶対的な「存在-意識-至福」です。「それ」が忘れられたとき、あらゆる不幸が起こります。「それ」をしっかりと捉えれば、不幸がその人に影響を与えることはなくなるのです。
ラマナ・マハルシとの対話1 p.34
自我の現象的な存在は、「私」という想念の立ち現れる源を探ることによって超越される。
「あるがままに」 p.88
あなたはまず真我の存在を認めなければならない。「私は在る」が真我の実現である。実現が起こるまで、その手がかりをもとにたゆまず探究していくことがヴィチャーラだ。ヴィチャーラと真我の実現は同じことなのである。……瞑想には瞑想する対象が必要になる。一方、ヴィチャーラにおいては対象がなく、主体だけがある。
「あるがままに」p.95
真我探究で起こることは、「私」という想念が消え去り、探究を始めた「私」ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである。
「あるがままに」p.102
「私」という想念を心に保ちなさい。そしてそれが何なのかを見出すために問いただしなさい。この問いがあなたの注意を強引に引きとどめるようになったとき、他には何も考えることができなくなるのだ。
「あるがままに」 p.102
真我・存在
我々が真我の実現と呼ぶ状態は、新たな何かを達成することではなく、どこか遠い目的地に到達することでもない。それはつねにあなたであるもの、そして今までずっとあなたであったものとして、ただ在ることである。あなたに必要なのは、ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ。我々は皆、実在ではないものを実在だと見なしている。ただこの習慣を放棄するだけでいい。そうすれば、われわれは真我を真我として実現するだろう。言い換えれば、「真我として在りなさい」ということである。あまりにも明白な真我を実現しようと努力しているあなた自身を笑うときが、いつかやってくるだろう。
「あるがままに」 p.22
「私」が破壊されるべきです。真我とは到達すべきものではありません。真我が存在しないときなどあるでしょうか。それは新たなものではないのです。あるがままに在りなさい。新しいものは永久ではありえません。真実なるものは常に存在しているのです。
ラマナ・マハルシとの対話1 p.94
私たちは真我の中にいます。世界の中にいるのではないのです。
ラマナ・マハルシとの対話1 p.95
瞑想
瞑想の修練の主要な目的は、外的な印象を取り込むことなう、他の事を考えることなく、心を活動的に瞑想に専念させることにあるのです。
ラマナ・マハルシとの対話1 p.138
観照者
もし自分自身をスクリーンと見なし、その上に主体と対象が投影されると見るなら、惑わされることはなくなるでしょう。真我に影響を与えることなく現れては消え去る主体や対象を、人はただ見守るだけなのです。
ラマナ・マハルシとの対話1 p.139
ハート
ヨギは「脳にあるサハスラーラ・チャクラまで流れは昇りつめ、そこで終わる」と言いますが、その体験は完全なものではありません。それはハートまで降りて来なければならないからです。ハート(フリダヤ)はアルファでありオメガであるものです。
ラマナ・マハルシとの対話1 p.130
行為者の感覚
アルジュナは、「カルマ(行為)は修練(サーダナ)なのか」と尋ね、クリシュナは「もし行為者という感覚なしに為されれば、そうである」と答えています。
ラマナ・マハルシとの対話1 p.96
物質のグナ
(二、三日は心が明瞭だが次の二、三日は鈍くなるという質問に対して)それは極めて自然なことです。それはただ、かわるがわる純粋性(サットヴァ)、活動性(ラジャス)、不活発性(タマス)が戯れているのです。タマスが現れたからといって悔やんではなりません。しかしサットヴァが現れたときはそれをしっかりとつかまえ、最善を尽くしなさい。
ラマナ・マハルシとの対話1 p.113