意識の引き戻しに関する質問

は瞑想を続けておりますが、記事を読み大いに助けられております。私は記事の中に出てくる失敗事例のほとんどを体現しているため、なぜ瞑想を毎日続けているのに上達しないのか、なぜ失敗ばかり繰り返すのか、朧気な理解ができるようになりました。

私の理解するところによれば、私という自我は、メンタル・アストラル・肉体のエナジーの重なり合った結晶点ないし交差点のようなものであり、常に流動する性質があるため、この自我において瞑想しようとすれば、諸体のエナジーをかき回す、あるいは諸体のエナジーの交差点としての結果が自我であることから、そもそもが騒音であり、これらかき回されたエナジーに反応を繰り返し、決して静かにはなりえないのではないかと。かといって自我は流動する結晶点みたいなものですから、おとなしくすることもできず、自我の行動は何をしても騒音が生じてしまい、結局何もできないお手上げ状態ではなかろうかと理解しております。

はい、自我は瞑想する側ではなく、瞑想によって静かにさせられる側です。

瞑想とは、このような自我の状況(当面感じられるところでは、具体的には心の動き)を理解し、真にお手上げ状態になることではないかと思っております。この真にお手上げ状態になったとき、はじめて自我の動きが止まり、静けさを感じるのではなかろうか、そのように勝手に想像しております(間違いがございましたらご指摘していただければ幸甚です)。

「お手上げ状態」を求めている自我がいます。それはアストラル的つまり情緒的なものです。魂と接触し、融合を深め、一体化する過程が瞑想であり、この魂が個人をつかみ始めるとき、自我がお手上げだと感じたとしても、そのような自我の反応に反応しなくなるのです。

自我は、「お手上げ」の先を求めています。魂としての自己に安らいでいるとき、いかなる個人の反応つまり「メンタル・アストラルのエナジー」とも関与がなくなり、距離ができます。個人が「お手上げになるべきだ」と説得してきても、騙されることはありません。それは家の外で誰かが騒いでいるようなものであり、決して家に影響を与えません。

それで私は、当面の課題であるアストラル体の鎮静をするにあたって必要なことは、自分の心の動きを見つめることにより、自我のお手上げ状態を理解することだと考えておりました。しかしこれは相当難易度の高いものであり、いささか途方に暮れる感もありました(それでもチャレンジはするつもりです)。

ところが本日の記事である「実践的瞑想法」では、かなり具体的ないわば技法が紹介されており、難易度自体は、心の働きを観察し続けて自我の性質を理解するよりも、随分と実践しやすいように思います。そこでいくつか質問をさせてください。

はい。それは極めて単純かつ簡単なものです。

しかし、難易度とは何かを考えてください。瞑想は全く挑戦ではないのです。しかし、あらゆるチャレンジが挫折に終わることで、自我はやがて自身の無能性、つまり決して瞑想できないことを理解します。瞑想は行為ではなく、行為しようとする自我に、魂そのものが訪れて、無為にするものです。

諸体を統御することで、魂と波長が合い、魂と接触し融合するようになり、自我は、瞑想しているのが自分ではなく魂であり、その魂が自己であり、魂とのこの合一が瞑想の目標であることを、三界のものではない平和と安らぎの中で知ります。

①「実践的瞑想法」では、「メンタル・エレメンタルへの養分の供給を断つ」との趣旨が述べられております。
すると当該記事に記載されている具体的な瞑想技法は、メンタル体を制御するものであり、アストラル体の鎮静が課題である私のような者には適用できないものなのでしょうか?

「アストラル体の鎮静」がない状態でやってみてください。できませんから。瞑想が正しく行われるとき、時間はかかると思いますが、瞑想中にアストラル体は沈静化します。そのとき、アストラル体が統御されたことを自我は自覚します。意識状態に明らかな変化があるからです。こうして、魂にまずアストラル体が整列したならば、メンタル体の統御に取り掛かることが可能になります。

それより、なぜメンタル体を統御したいのか考えてみてください。何の欲求が、欲求そのものであるアストラル体を静めるより先に、メンタル体の鎮静を切望させるのか、動機を見てみてください。妨げているものは、自身のアストラル性質であることが知られるでしょう。

「瞑想がもたらす何か」への野心に多くの瞑想者が捉えられています。こういうものと関係がなくなる精神がまず求められるべきです。悟りやサマーディーは他人の話であり、自身が魂に充足しているならば、霊的なものを含め、いかなる自我の欲求とも関与しなくなります。このとき初めて、想像されていたものとは全く次元を異にする何かが開示されうるのです。

仮に適用できるとして、意識を戻す点は眉間以外は不可でしょうか? といいますのは、私は幼少のころから眉間が敏感であり、少し眉間を意識しただけですぐムズムズしてしまい、強い疼きを感じるため、とても瞑想にはならないと思います。何かが眉間に当たっても疼きを感じます。そのため、例えば胸のアナハタチャクラや、いわゆる丹田に意識を戻す方法でも代替できるでしょうか?

意識を戻す点は、必ず眉間のアジュナ・チャクラです。アナハタ・チャクラは使用しません。丹田がいわゆる下丹田(仙骨センターもしくはスヴァディスターナ・チャクラ)を指しておられるのであれば論外です。瞑想では、太陽叢センター(マニプラ・チャクラ)を介して以下の二点を行います(それは絶えず眉間に意識を引き上げるかぎり自動的なものです)。

  1. 下位にある二つのフォース・センター(仙骨と脊柱基底)のエネルギーを混ぜ合わせ融合する。
  2. これらの融合されたエネルギーを上昇させ、他の上位にあるフォース・センター(ハート・喉・アジュナ・サハスラーラ)のエネルギーと混ぜ合わせ、全体として頭部に集中させる。

具体的には、脊柱基底センターはヘッド・センターへ、仙骨センターは喉センターへ、太陽叢センターはハート・センターへそれぞれエネルギーを移行させるのが瞑想です。個人つまり低位我は、太陽叢から下のチャクラを使用しており、それによって自我たりえており、高位我つまり魂はハート・センターより上のチャクラを使用します。

下丹田つまり仙骨センターを使用することは自我の低位の様相を刺激し強めるだけであり、アナハタ・チャクラを使用する瞑想はまた別のものとなりますが、後者は良いものです。神秘家はハートからブッディ界に至り、秘教徒はヘッドからアートマ界に至ります。これについては神秘家と秘教徒の違いについてまとめており、このブログは後者に関係しています。

※幼少時からの「眉間のムズムズ」は魂の波動の可能性があり、現在確認をしている最中です。ただし、何かが当たったときはエネルギー感覚は中断されます。しかし、これが魂の波動であれば、適切に自我が対処することで飛躍的な霊的前進が得られる可能性があります。

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