I AM

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合一の啓示

前回書いた瞑想が進展するとき、意識よりも存在、第二様相よりも第一様相、ヴェールを剥がれた魂に秘められた生命そのもの、つまり真我の兆し、存在自体に人間は感応できるようになるだろう。それは、顕現している一切のものの真我であり、根底に流れる命であり、人間が知りうるかぎり最高の純粋である。純粋とは、完全にサットヴァであるという意味である。この純粋を、魂と融合しているパーソナリティーがわが内にて知るのである。このとき、もはや崇高な意識状態よりも、その意識の背後の実体の方がより真実であるという感覚に至る。私は魂だが、しかし私は真我である、という言明がこのとき瞑想者から発せられる。こうして、彼は意識より存在を選ぶ。彼の中で、これまでのI AM THATが、I AMになるのである。

真の結婚

アジュナ・センターとヘッド・センターが相互に機能するようになり、眠っていたアルタ・メイジャー・センターが振動を開始し(それはアンターカラナの後半段階を意味している)、頸動脈腺を伝って生命が降り下り、ハートにて真我はおのれを開示する。こうして、ヘッドとハートは結びつくのである。これが、イニシエートが目指すべき真の結婚であり、真の幸福、真の希望、真の愛である。これら三つの単語、幸福と希望と愛は、現在の人類では個人の分離した目標として解釈されているが、その本質がこの統一のなかにある。魂との合一が真我を教えるのである。これを我々は至福と呼んでいる。至福は、魂の強烈な愛や喜びを超えたものであり、存在そのものに由来する、より静寂で、より純粋で、より厳かな、神である私である。

紙一重

この話は遠いものではない。ほんの紙一重で気づけないだけである。例えば、起床後、人は起きるのが嫌だと言う。何らかの欲望を満たす楽しみがある日だけ、人は嬉々とした自発性をもって起床する。普通は、起きることは苦痛である。私意識が始まり、記憶が呼び覚まされ、抱えている未来が想像され、特定の私と時間という重荷が起床後の人間にのしかかる。だから、もっと寝ていたいと言う。もっと重荷を忘れていたい、もっと無意識の安楽に留まっていたいと言う。これを魂の言葉で翻訳するならば、はやく合一し、真我に目覚めたいということである。自我ではなく、真我でありたいということである。

そこで、起床後の苦痛という、想念に付着する情緒的解釈を無視して、ただ存在しているというこの事実に焦点を合わせるならどうだろうか。どこにも苦痛などないではないだろうか。苦痛や感覚や想念は、個人が自ら作り上げた、いわば自身に課した自身による嫌がらせであり、それは誤ったものへの執着に基づいている。魂に由来する無執着を経由して存在そのものに錨を下ろすならば、そもそも真我であることが明白だったのである。これは、諸体が精製され、浄化され、静けさに反応できるようになり、高位の存在の受け皿となったときには明白だが、未精製の騒音状態つまり自我の強い状態であるならば、それはあらゆるものに執着している状態であり、真我より自我を自ら選んでいることになるのである。

このようにして、紙一重の真我は近くにいて遠いものとなっている。我々は真我だが、覆い隠している自我の引力への視力が勝っている。この執着の正体を瞑想で見てみるならどうだろうか。それは物質そのものの単なるフォースである。瞑想で魂と融合を深めるにつれ、ありのままにフォースを見ることができるようになる。それは、真我である自身の神聖なエネルギーに対しては無力である。執着は、つまり無知の結果なのである。それはただのフォースだが、我々が魂つまり知恵であるならば、そのような偽物が存続し自己主張を続けることはできないのである。我々を錯覚に繋ぎ止めておくことはできないのである。

I AMを超えて

無知から醒めるとき、何とも交わらず、無垢で、純粋で、ごくごく静かに、真我であるだろう。そこには、もはやI AMすらないのである。I AMすら越えてゆくとき、それはもはや言語では虚しさを呼び起こすだけである。瞑想を通して至るべきである。速やかに。その門が自分にも開かれていることを証明しなければならない。「どうせ私には」という根拠はない。ただ自我でありたいだけだろう。神の招待状には、高いも低いもなく、万人の名が連ねられていたことを証明しなければならない。今後、すでにして届いている神の招待状を信じ、わが内にて証明する者が増えるだろう。こうすることで、人類そのものが変容を体験するだろう。そのとき、原因であるもの、神つまり真我そのものに理解不能な変容が起きるだろう。

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