思考内での葛藤
瞑想にて、思考が思考をコントロールしようと思考する。これを完全に無意味とは言わないが、通常は無意味である。簡単に言えば、これは自我の動きの一部である。ヴィヴェーカーナンダの言葉を借りれば、「もしマインドを慌ただしく表現しようとする変異があり、ヨギがそれをコントロールしようとしているならば、そのコントロールそのものが変異であろう」。この想念の支配欲そのものが障害であり、低位マインドの動きと変異そのものであることを初期段階では表している。
これは、人間の低位マインドつまりメンタル界の低位亜界を通過したエネルギーに肉体脳が反応している状態である。このリズムと関わってはいけない。このリズムが人間つまり自我の動きである。彼は静められねばならない。その方法は、彼の動きに対する無反応にある。無反応の主は魂である。したがって、人間の意識を支配しているのが自我であるか、魂であるか、その優勢の度合いによって瞑想が変わるため、一つの方法を提示することが瞑想においては不可能になっている。
真の思考者の到来
意識において魂が優勢になる時が来る。この場合、冒頭の文章は成立する。真の思考者は魂だからである。内なる思考者(彼はメンタル界の高位亜界に存在する)が、思考の前段階である原料(チッタもしくはマインド・スタッフ)を振動させ、想念の形態を作り出し、低位人間つまり低位マインドが形態に反応し、コントロールへの意志という思考に従う。これは自我の見地からすれば魂のエネルギーの正しい方向づけというかたちを取る。これにより、低位フォースがすべて魂の独特の波動に服従し、思考のない状態、静かで安らいだ無理のない自然状態を低位人間に教えるのである。
これはまだサマーディではないが、思考がないことが心地よいこと、マインドが統御されていることがむしろ自由であることを人間は理解する。この魂によるコントロールが、ヘッド・センターからアジュナ・センター、そしてアルタ・メイジャー・センターを介してハート・センターをも巻き込むとき、彼はこの無思考の領域を完全に生き生きとした喜びと見なすようになり、意のままに「憩う」ことを覚える。これが合一という初期段階の目標を通して生命の「移行」をやがて可能にするのである。つまりアイデンティティーの主は自我から全我となる。これは人間の魂が存在すべての魂(しばしばオーバー・ソウルと呼ばれる統一意識)に溶け込むことを可能にさせる。
霊的感動
実際は、サマーディと呼ばれる状態を経験する前から、通常の意識において、自我は魂を通して真我が教える愛や喜びの感覚に魅了される。つまり自発的に、彼の発するエネルギーに、低位我のフォースを従わせ始めるのである。これは一切の努力と関係がない。ただ、波動を認識し、魂が奏でる「愛」や「喜び」や「無邪気」といったチャンネル名に波長を合わせるだけになる。だから道の後半における欲望は、個人として魂を妨害しないこと、真我へ導く仲介者であり橋である魂が教える道に習うこと、それによって道そのもの、彼そのものになること(これを合一と呼んでいる)、しばしば奉仕と表現される愛の放射、認識した”神の計画”への献身が欲望となる。マインドと脳は安らぎ、魂として、人間と呼ばれる三重の形態内における魂の神聖なる御業の完成を見守ることが美となる。人間の情緒的な感動の高位の相応がここにある。最初の霊的感動であり、あまりに素晴らしいため、しばしば勝手に涙が流れる。
これほどの存在がすでにしてわれわれに内在していることを伝えることもまた欲望の一部になる。何としてでも兄弟姉妹と愛を分かち合いたいと願うようになる。愛は全一体の境地とほとんど同義語である。愛は、すべての同胞の限定からの解放、無際限なる至福と喜びを、何としてでも分かち合いたいと欲望させる。しかし見えるのは、人々を覆っている誤った欲望である。真我とは無関係のものへ向けられた執着である。この幻惑は苦痛へしか導かない。それは神性の外である。霊つまり生命ではなく物質へ向かわせるものである。肉眼や五感や個別意識のため、間違ったものを我として信じ、間違ったものを本物とみなし欲望している。この無知を破壊しなければならない。各々が、内なる教えを活用し、静かになることで魂を呼び込み、瞑想にて破壊しなければならない。各々を閉じ込めているのは、各々が作り出した何らかの形態である。それが粗雑な物質であり、内なるエネルギー、内なる光、内なる火の立場からすれば一瞬で破壊することの可能なものであることが知られねばならない。これらの神々が通ることのできる純粋な通路へ、肉体・アストラル体・メンタル体という三重の己を磨き上げ、清澄で純粋な伝導体へと築き上げねばならない。これが、将来すべての人が感動する定めである芸術、つまり瞑想である。