神の道具

所有の錯覚

重い物も、持てば重いが、見ている分には重くない。自我は持つが、魂は見る。自我は同一化するが、魂は無関心である。自我には存在しているが、真我には存在していない。

所有の原理

持つためには、同じ土俵にいる必要がある。結果の世界で、人は何らかに執着し、それを持つ。言い換えると、結果が結果を持つ。一方で、上空にいる者は、地上の物を見ることはできても、持つことはできない。彼は、上空から万華鏡のように現象世界を眺めるかもしれないが、次の瞬間には自身の世界へ視点を戻すだろう。

改善という錯覚

同じ土俵にいるとき、一方が他方を改善しようという錯覚が生まれる。他人も私も、あれもこれも、全部結果である。私が私を変えようとする自己改善もまた、結果の世界での奮闘である。結果と結果が争っているだけである。それは三界のフォース同士のぶつかり合いであり、その不調和と摩擦の結果、人は苦痛と呼ばれる感覚を知覚する。したがって、努力が苦しいと人は言うのである。このとき、彼はフォース間の争いを知覚しないため内的な理解も脱するための知性もなく、ただ苦しいという感覚を味わうことができるだけである。このような状態を、私たちは犠牲者の状態と呼ぶ。それは、原因に関する無知に由来する、必要のない苦しみである。あえて自分で作り上げた苦しみを自分で味わい続けるという無知の悲しみである。

知性の消失

私たちがアストラル界に意識を偏極させるとき、支配する原理は欲望と恐怖である。欲望があるとは、欲望を持つこと、欲望と自らを同一化させることである。つまり、そのとき彼と欲望は同じものである。彼は欲望の土俵に入り込み、欲望の波長に自らを合わせ生きることで、それ以外が見えない状態を一時的に経験する。

恐怖も同じである。怖がるとき、人は怖いものしか見えなくなる。彼は恐れる対象へ注目を注ぐことで、恐怖を増幅させ、一時的に力のある存在へと仕立て上げる。このとき、人の知性は無効化される。怖いものから逃れるために、彼は何でもするだろう。冷静さは失われ、理性や良識は萎縮させられ、恐怖というアストラル界の霧と靄によって、人の知性は無力化される。

錯覚を貫く

欲望や恐怖は、単に無知の産物だということを、日頃から覚えておく習慣が必要である。意識がアストラル界ではなくメンタル界に引き上げられるなら、私たちの知性は回復し、冷静さを取り戻そうという働きが生じる。この段階では、人は低位マインドの知性に解決を求めようとすることで、再び結果で結果を扱う愚を犯す。なぜなら、私たちが扱っている低位マインドの具体的な知性、低位メンタル・フォースとは、依然として結果である三界のフォースだからである。メンタル界の高位亜界まで意識を引き上げるとき、その高位抽象マインドの界層に由来する魂のエネルギーが彼の界層から使用可能になり、アストラル界の存在は、その魂の光によって消え去る。魂の目には、そのようなものは存在しないのである。これがパワーである。

移行

肉眼は錯覚させるが、魂の目は錯覚を貫き通す。私たちの目が、魂の目に取って代わられるとき、もともとそこに在ったもの、常在であるもの、偏在にして臨在であるもの、実在であるものが啓示される。存在するように見えるものではなく、”もの”の背後の生命(霊)を私たちの意識(魂)に啓示させる。錯覚が見破られ、錯覚の重荷が降ろされるとき、付随して、重荷による苦悩もなくなる。所有していたものが欲望であれ恐怖であれ、なくなる。消え失せる。意識は、愛と喜びに支配される。平和に安らぎ至福を味わう。よって、この魂の知性に到達した者は、以後、結果に縛られることなく、高位の知性、高位の視力、高位の世界に生命活動を移行させるようになる。

現在、私たちの生命活動は、結果という三界に限定されている。なぜなら、人間の魂が、三界の錯覚と同一化しているからである。私たちは、こうして、低位の界層、低位の波動に生きている。言い換えると、結果のフォースに動かされている。このようなフォースは、本来、我々が神や仏と呼ぶものが志向している意志のために、つまり”良い目的”のために使用されるものである。ところが、私たちの諸体が磨かれていないため、意識は高位の知性ではなく、低位の知性に甘んじ、その低位の知性が、高位のエネルギーを歪曲させ、誤解釈と誤用へ導き、人間という限界に苦悩させるのである。

自分から道具へ

我々は、錯覚により、諸体を自分と呼んでいる。その結果、肉体は絶えずアストラル界のフォースに動かされている。例えば感情とか欲望とか気分とか。肉体はまた、絶えず低位メンタル界のフォースに動かされている。つまり思考である。実際には、アストラル界とメンタル界のフォースは混ざり合って、肉体を動かしている。例えば「決意」は、純粋にアストラル的でもなく純粋にメンタル的でもない。分かりやすく言うと、それは感情と思考の混ざり合ったものである。このようなものを、神智学徒はカーマ・マナスと呼んだが、人間は現在、カーマ寄りのカーマ・マナスの自動装置になっている。したがって、最も征服の困難な界層がアストラル界になっている。

人間がおのれを知り、つまり魂を知り、アストラル界とメンタル界を征服するならば、諸体は自分ではなく道具になる。肉体も、アストラル体も、メンタル体も、高位我の道具になる。高位のエネルギーは、低位によって歪曲されることなく、純粋なまま、妨げられず流れることが可能になる。そのため、人が進歩するとき、行為者を卒業し、おのれ(意識・魂)を唯一なる存在(霊・モナド)に溶け込ませるのである。諸体は、諸体という低位我ではなく、真我という高位我の自動装置に変容する。このような神聖装置を、人の子らは、聖人とか覚者とか呼んでいる。彼らは、人ではない。より良く磨かれた道具である。ラマナ・マハリシの話とは、神がラマナ・マハリシと人々に命名された道具を通して語った話である。私たち人間の話とは、神が山田太郎とか田中花子とか人々に命名された道具を通して語った話である。イエスの御業つまり行為とは、神がイエスと名づけられた道具を通して行った行為である。私たち人間の行為もまた、それが悪行であれ善行であれ、神が私たちの諸体を通して行った行為である。

このようなことを知らず、見えるもの、感じるものにのみ惑わされ、「私」の行為と人が想念するとき、それがカルマの原因を始動させているのである。つまり、原因に応じた結果を未来に刈り取ることになる。原因と結果の連鎖、カルマの鎖に繋がれることになる。それは、原因の始動に無知である結果である。言い換えれば、マインドを統御し、独立した「私」から自由になり、諸体が神や真我の純粋な道具と化すことで、カルマは存在しなくなる。

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