霊的な目覚め
通常、無知な人々は、最初に七つのチャクラを客観的に研究することから始め、それらのチャクラに感覚を引き起こしてその場所と特質を意識するために、サイキック的な実践を行う。そしてその後に、瞑想を通して魂と接触するよう努力する。この順序は間違いである。人間は最終段階でそれらのチャクラに気づくようになるべきである。というのは、チャクラがその一部である形態様相ではなく、魂を強調し、魂と同一化すべきだからである。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」 p.182
「スピリチュアル」な人々がなぜ執拗にチャクラを研究しようとするのかを我々は理解している。そこに関わるべきではない。我々は物質ではなく霊つまり真我であることを信じる必要がある。自我と真我の仲介者は魂である。彼が人間という太陽系における神であり、我々を真我に引き戻す。そのため、彼のエネルギーを諸体に流し、習い、振動を速め、何に波長を合わせるのが正解なのかを最初に習得すべきである。その後、チャクラに関する知識は内から自動的に与えられる。したがって第五段階のイニシエートが教える通り、目覚めの順序は以下のようになる。
1 | 統合 | メカニズムの調整統合 |
2 | 総合 | パーソナリティーと魂の融合 |
3 | 占有 | 魂から諸センター(チャクラ)へのエネルギーの流入 |
4 | 目覚め | この流入に対する諸センターの反応 |
統合
メカニズム、つまり人間の三重の構造は肉体、アストラル体、メンタル体である。瞑想は、最後の二つの体を構成する物質の調整統合と関係している。我々は瞑想中に雑念に連れ去られる。雑念の内容によって情緒体が振動する。このような波長に通常は自らを同一化させているのである。「思考を静めよう」という思考に波長を合わせるのも余計な抵抗である。どの波長が正解なのかを我々は知る必要がある。それは魂の波動である。
魂との融合
誠実かつひたむきに瞑想する人は、瞑想で徐々に静かになる。眉間に意識を置き、瞑想の基本にして師でもある静寂にただ在ること。私がやったのはこれだけである。ただ魂に従っただけである。我々が十分に静かであれば、問題なく額に魂の波動を感じるようになる。それは頭頂部のヘッド・センターから入ってきて、眉の上まで降り、頭部の上半球をリズミカルに満たし、やがては頭部の七つのチャクラを自在に幾何学的に巡り、両目までも覆うようになるだろう。そのときはアジュナ・センターは活発であり、エネルギーは火のようになっているかもしれない。この振動に諸体を順応(共振)させるのである。これが達成されたとき、魂に対し、諸体が整列するようになる。このリズムで瞑想し、このリズムで生活し、このリズムで人々に接するのである。このようにして、パーソナリティーつまり自我と魂を融合させるのである。
日常での波動の維持
目標とする波動つまりエネルギーに生きようとするとき、個人は抵抗する。波動を引き摺り下ろそうとしてくるだろう。なぜなら、我々にはまだ欲望があるからである。身近な人々も、我々の霊的な前進つまり魂の影響力である非人格に異を唱え、自分たちが安心する波動へ引き摺り下ろそうと(悪意なく)するだろう。そして脳細胞に過度の緊張を与えないためにも、休息というかたちで、定期的に波動をリフレッシュし、徐々に高位の振動に慣れさせるという根気のいる作業が必要になるだろう。したがって、失敗をたくさんする。しかし無視して頂きたい。日常で嫌な出来事に見舞われるだろう。無視して頂きたい。繰り返し経験する挫折に膝を屈したくもなるだろう。しかし誘惑に負けないで頂きたい。我々は真我である。自我に共感することで自作の物語に主演したり、低位の波動へ逆戻りをしないよう、賢明に、何事もなかったかのように、穏やかに、着実に、瞑想で魂と共振し、安定して静けさを習うのである。徐々に、いかにしてアストラル体やメンタル体を静めるかを、魂によって習得するだろう。インドやヒマラヤに行かずとも、あるいは誰かに教えを乞わずとも、偉大な師が内側に小さくしておられたことを知るだろう。
エネルギーとフォースの実践
横隔膜より上のチャクラの実践的な知識が魂によって与えられ、波動の扱い方を学ぶだろう。諸体のフォースを見ることが出来るようになり(アストラル界とメンタル界それぞれに在る捉える目の意味である)、意識的に魂のエネルギーを賦課することが可能になる。エネルギーつまりリズムを照射し、正しい振動を低位我のフォースに教えるのである。このようにして、「自分」を構成している質料を霊化しゆくのである。これらが実際に出来るようになったとき、我々は弱き人間ではなくなる。苦しみ、助けを求める側の人間ではなくなる。すべてが内にあったのである。静かだからこそ、今やそれが分かる。魂の波動にではなく、魂と直接接触するようになり、言語を絶する愛と喜びに打ち震えるのである。