正直な書き方をしてみよう。「私は勝手にできるようになった」という言い方が正しい。何が言いたいのか。途中までは、「自分」で行う感覚がある。「私は霊的な技をすることができる」と感じる。しかし、実態をよく見るならば、「行う」のは、もしくは「行っている」のは、力やエネルギー自体である。決して「私が行う」ではない。力やエネルギーや流れが、あるいは意志が、私と思われている媒体に行ったり、媒体を通して行為したりしているだけである。これに異を唱えられる者がいるであろうか。媒体が行うのではない。媒体を通して、媒体に流れる(神の)力が行うのである。ここにさえ気づくならば、媒体を私と思っていた者は、その私には何の責任もないことを知って喜ぶであろう。媒体でしかない私そのものには力はなく、媒体に力が流れているのだということを知り、委ねるという技を習得し安らぐであろう。だから、決して「私が行っている」という視点を持ってはならない。「行う」を可能にさせている力を、我々はただ眺めることができるだけである。言い換えると、意識は意志に対して何もできない。何かをできるのは力や意志そのものである。意識ではない。意識は気づいていることができるだけである。この認識つまり意識に至ったとき、我々は、神の名において自由になる。神の意志ゆえに無責任と化す。行っているのは神である。すると、すべての背後に神を知るようになるであろう。あらゆる動いている形態、動いていない形態、あるいは出来事と呼ばれる事象、すべての背後に神を見るようになるであろう。神しかいなかったのである。
「先生」とは、我々よりも先に存在する生のことである。個人よりも前に、生命が存在する。神の生命、生命という力、力という意志、これが先生である。これが覚者であり、これが大自然である。こうして個人は先生に学び、そしていなくなる。個人という錯覚が存在できなくなる。事実の前で。そして残ったものが真我である。
こうして明け渡した者に訪れるのが至福である。この至福なる者は、もはや何もしない。いまや何も考えない。ただ気づいており、ただ喜んでおり、ただ真我として真我を賛美し、その美と完全性に大変な喜びを味わっている。これが、個人が魂に整列したときに起こることである。沈黙の大歓喜意識である。内に向かった者は、やがて内ゆえに外を包含するであろう。内ゆえに外へと向かい始めるであろう。これを奉仕と言う。または愛と言う。意識は、愛に気づくことができるだけである。意識は、内で得たものを携えて外へと出て行き奉仕させる愛の翼を得た意志に気づいていることができるだけである。神は意志と愛と智慧を通して働く。アートマとブッディとマナスという高位のパーソナリティーを通してモナドは働く。モナド、霊、エネルギー、生命、これらは同じものである。これが真我である。これが本当の私である。それを知ることが、すなわち神を知ることである。
個人は、愛に挫折する。勝ちようのない相手に観念する。人は愛に喜びながら打ちひしがれる。愛と意志と智慧――聖なる三位一体である霊的トライアドに、パーソナリティーは土下座する。あまりに素晴らしすぎて。かくして個人主張は憚られる。憚る賢さに貫かれる。肉体とアストラル体と(低位)メンタル体という三重のパーソナリティーは、魂を通して、魂に教えられて、高位メンタル界に住む魂を超えて、各々が対応するマナス体(メンタル界の最高亜界)、ブッディ体、アートマ体という高位のパーソナリティーへと意識を移行させる。人格や性格に表されるようなパーソナリティーではなく、また魂ですらなく、高位の三角形が新しい表現体と化す。すなわち意志と愛と智慧である。それらは一体として働く。そしてそれらの働きを可能にさせているのもまた大いなる神の生命である。
したがって、マインド意識の私たちのために、その位置から観点を語り描写するとき、「私は勝手にできるようになった」ということになる。瞑想をしていたら、瞑想の仕方も徐々に勝手に分かるようになり、瞑想することができるようになり、以下の簡易図が示すパーソナリティーの上の魂と繋がり、それから魂が私になり、魂として霊的トライアドの最下位の様相であるマナスに到達し、二つの隙間にアンターカラナと呼ばれる橋が架かかり、アンターカラナを介してさらに順にマナスからブッディ、アートマへと意識は拡大するようになる。

こうして、この世の個人を支配し統御するのは高位のエネルギーになる。個人がどれだけ神性を表すことができるかは、どれだけ高位のものと繋がっているかを意味するだけだ。このような意識に至るまでに、私は何年もかからなかった。だから、瞑想の偉大さを私は知っている。瞑想を通して……。いま気づいたことだが、右目から涙が流れている。人間の場合、涙は情緒と関係している。感動したり悲しんだりするとき涙を流す。私の場合は情緒が存在しない。それは愛などのより高位の情緒に取って代わられている。したがって、悲しいから泣くのでもなく、苦しいからでも、辛いからでも、嬉しいからでも、感動するからでもなく、霊的に私は勝手に涙を流していることになる。私は子どもの頃から泣いたことがない。泣くタイプの人間ではなかったが、今は泣いている。それは神ゆえにである。誰にも泣かされたことがなかった者を、神が泣かせているのである。
冒頭の始まりから何を基本的に言いたかったのか。瞑想でアンターカラナが構築されないかぎり、神の力は流れられないということである。人間まで届くための経路がアンターカラナである。図からも分かる通り、魂はメンタル界の第三亜界に最初は存在している。だから、パーソナリティーと魂を繋ぐ前半のアンターカラナは、メンタル質料で構築されることになる。いま、672夜の読者でこの前半のアンターカラナを構築し終えた者は数えるほどしかいない。だから集中的に説かねばならないのはここである。メンタル質料で(前半の)アンターカラナが構築されるとはどういうことか。単に、今はあちこちに放置されて様々な想念を勝手気ままに形成しているメンタル質料を統御し、自身が認識できる内なる最高点に集中させるということである。すぐに魂と接触できるようになるだろう。しかし、そもそも、この種の集中も、最初は個人がその気にならねばならないが、集中させる力とは、神の力であって、アンターカラナが少しでも構築され始めたならば、その少しの分だけ神の力が流れるようになり、その力がこの橋の構築を強引に推進するようになるゆえ、自分でどうこうしようと努力的になってはならない。ほとんどの人はアンターカラナという概念を知らずして到達しており、知る必要がその人達にはなかった。しかし、理屈で説明するときには、瞑想がこのアンターカラナの構築の科学の一部門でしかないことを個人には認識させると効果的である。つまり、「私は接触できない」と嘆く必要はなく、現在アンターカラナを瞑想で構築中であると考えて、安心して集中に安らぐべきである。接触は、経路なしには不可能である。
だから、魂でなくとも、瞑想の最高点でよいから、そこへ瞑想のたびに毎日戻ると思うが、そのとき、「戻った」と私は言っていたのである。やっと戻ったと思いもした。というのも、瞑想から出たら個人意識にならざるをえず、そのような一日が終わって瞑想に入り、やっと元に戻れたという安堵がそう言わせていたのである。そして、魂は、「戻ったままでいなさい」と私に教えた。だから私は戻っているかぎり、「戻っている」と言っていた。そのようにして想念に連れ出されぬようにして、意識を魂に固定させていた。このような時期は非常に短い期間であった。というのも、魂に固定できるようになるならば、それまでのすべてがそうであったように、あとは自動的になるからである。すると、魂以外に目を向けること、すなわちメンタル体やメンタル質料を統御していないことがむしろ苦痛になり始めるだろう。戦争後に平和を知った者が、どうして戦争に戻れるであろうか。二度と戦争は嫌だと誰もが言うだろう。平和と調和を知る者は、その和の使者として働く以外に仕事は存在せず、また戦争に戻って個人に生きようものならすぐに死者になるだろう。
そろそろ最後にせねばならぬだろうが、言いたいのは、我々の力では何もできないことを知って、あまり自分を責めないようにということである。我々にはできないものである。瞑想を信頼することである。瞑想によって、それが正しいものであれば、自動的にアンターカラナは構築されるゆえ、知らずして多くが勝手に達成されるものである。ゆえに、瞑想の間違いを犯さぬことだけに気を配っておけばいい。瞑想の間違いとは、個人による努力の介入である。ここが難しいところで、何をもって個人と言うか、という問題がある。多少なりとも融合した者は、その半融合が個人であるゆえ、完全な自我ではないものが個人になっており、その場合は融合しつつある個人は意識的かつ意図的に方向づけを行わねばならない。しかし重要なのは、そこに努力がないことである。ここで正誤の識別が可能である。自分でどうにかしようという錯覚がなく、流れに忠実であろうとすること、流れに逆らう無知の動きを本流に向け直すという方向づけは、決して努力ではない。それは委ねることの意識化である。委ねていることを常に認識した状態である。邪魔をするのは想念だけである。しかし、一回の瞑想にも干満があり、良い時と悪い時が交互に訪れるものであるゆえ、その良い時というチャンスは一回の瞑想で短い。そこを捉えさえすれば問題はなく、言い換えれば、できるときにできればいい。できないときはできないでいい。このようにして、力の働き方を観察すべきである。私が力だと思わずに。働くのは私ではなく、力である。その力は神から来ている。
瞑想に関して今日私が言うべきだと思ったのはこのようなことである。
