瞑想– category –
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二の一
「神は愛である」から「神は意志と力である」という最後の教えへの変遷について。これがなぜ重要であるかというと、我々の内部でもこれは起こるからである。フォース(force)は文字通り力だ。対してエネルギー(energy)と言うとき、実際に我々が指しているのはフォースであり、純粋なエネルギーではない。たとえば、魂のエネルギーと言うが、それは実際は魂のフォースである。 エネルギーとフォースは神とその創造物のようなものである。被造物は神によって成り立ち、すべての被造物のあらゆる局面に神は浸透し... -

失われた我を求めて
瞑想の一般的な構図は、想念と、それを抑えようとする瞑想者である。一刀両断するならば、彼自身がすでに想念なのである。言い換えると、「考えられるもの」と「考える者」は、ともに想念である。その背後に純粋な意識が在る。これを魂と言うならば、魂は無関心に観照しているが、想念は、肉体人間を自分と考え、また瞑想者だと考え、瞑想する自分がすべきことは想念を抑制し内側に集中することだ、と考えるのだが、この一連の流れはすべて想念ではなかろうか。 然り、私とは想念である。これをどうにかしようとし... -

「あるがまま」からの逃避
あなたは、あるがままと直接に関係しない。あなたは、孤独の扱い方をご存知だとおっしゃる。指摘させていただくなら、この、孤独への働きかけそれ自体が、あなたなりのその避け方なのである。あなたは、散歩に出かけたり、あるいは孤独が去るまでそれとともに座っておられる。あなたは、常に孤独に働きかけていて、孤独にその物語を話させない。あなたは孤独を支配し、孤独に打ち勝ち、孤独から逃げ去ることを欲する。それゆえ、あなたと孤独との関係は、恐怖の関係なのである。 クリシュナムルティ「生と覚醒のコ... -

仏陀的
もし内的に落ち着きがなく、瞑想することもままならないと瞑想中に感じたならば、普通は諦めて止めるか、かつて達成されたレベルにまで入れるよう何とか努力しようとするだろう。このような判断に関わっているのは個人であり、個人の動きは常に逃避的である。私ならば、「今日は諦めよう」とか、「より深い意識に入るまで頑張ろう」などといった想念とそもそも関わらないため、何もしない。何もさせない力が勝っている。瞑想させないように内部で暴れ回っているものをただ見る眼が在るだけである。それは決して、... -

見えない理由
誰かを嫌いであるとしよう。人間だから合う合わないがあり、避けたい人間から嫌いな人間、ひいては許せない人間、憎むべき人間へと変化するのは初期段階の意識では避けられない。これを無くしたい。誰かが嫌いなとき、その誰かという特定の者は、実際には我々のマインドの中にしか存在しないのではないか。その誰かは、想念でしか捉えることができないのではないか。あるいはその相手の肉体を目の前でみるとき、マインドが関与しなければ、あるいは記憶喪失にでもなるならば、純粋に接することができるに違いない... -

すべての一体性について
「人類と私は同じ意味である」とか、「世界と私は同義語である」とか言うとき、周囲の木々や、樹皮や、生えているキノコや、あるいはそれらを照らす太陽など、すべてを自分と感じている状態なのかと聞いてくる者がいる。今述べられた形態の側面は、人間の意識においては存在だとみなされているが、私はそれらを存在と見ておらず、ただ表現と見ており、その表現を可能にさせているフォースがどのようなものであれ、フォースはエネルギーであり、すべてに浸透する自由で純粋なエネルギーつまり生命が私だと言ってい...

