瞑想– category –
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従うべき道筋
「してやる」という錯覚について。たとえば主婦は、料理を作ってやってる、掃除をしてやってる、などと言い、旦那は旦那で自分が養ってやっている、などの感覚を持つ。これらが奉仕ではないことは明らかである。なぜなら無私ではないからだ。見返りを求めている。「してやっているのに」という不平がある。真の奉仕の場合、結果に対する執着も、結果を出したことによる報酬の要求もない。このような問題の本質は、一体性を知らぬという、その一点である。したがって、一体性の境地からでなければ純粋な奉仕は厳密... -

奉仕できるから生きていられる
人間を含めて生物とは、すべて、奉仕するから生きていられるのである。「奉仕するために生きる」ではなく、「奉仕できるから生きていられる」という、この意味の違いを識別すべきである。人間に限らず生命自体を我々が知るとき、生命エネルギーというものが、例外なく、善や正しさと呼ばれるものへ究極的には向かっており、奉仕が「生きがい」であり、奉仕だけが表現体を生かしておける理由であることを悟ることになる。 奉仕とは、一体性が前提にあって初めて可能となるものであり、それは多様な顕現の世界にあっ... -

中道
昨日、友達に瞑想を教えていたときに分かったことがある。「静かにしていても妄想が多くて瞑想になっていない」と言うのである。このような錯覚は多い。一言でこれに答えるならば、それでいい。「それは駄目だ」はあなたの解釈であり、実際は瞑想と逆行する抵抗である。妄想が出ようが関係ない。その背後に静けさは最初から在る。都会の騒がしい場所に行ったら疲れるだろう。逆に誰もいない自然に囲まれたのどかな公園のベンチやブランコに一人座るならば、静かで落ち着くだろう。その静けさの中に言いようもない... -

保守とリベラル
目に見える世界は実在ではないが、それを実在と受け入れるならば、分離を受け入れることになり、そこに避けがたく恐怖が生まれる。その分離した世界の一個人として、様々な脅威にさらされることになるだろう。霊的教師は、「その私とは誰か突き止めなさい」と言ったが、一体性を知る前に突き止めようとすることは、頭で考えることに他ならず、理論と苦痛以上のなにものも生み出さないだろう。「私は在る」という感覚と共に在ることの方が教えとしては優れているが、ある段階にさしかかるまでは、「私は在る」もま... -

小学生の読者へ
家に誰かが来た。彼は、その家は私のものだと主張した。こうして、家をめぐる私と彼との争いが始まる。そのうち、私は彼がひどく神聖で、著しく礼儀正しく、自分のような粗野な者からすれば平伏すべき存在であり、格が違うことを理解しだす。と同時に、彼の主張は理にかなっており、家が彼のものであることを全面的に理解し、賛成すらするようになる。昼は私が家にいて、夜は彼が家にいるような生活から、共同でいつも暮らすようになり、ついには、彼が自分であるという驚くべき事実を理解するまでに至る。かつて... -

不可思議の中の不可思議
元気だった者がいきなり体調不良に陥った。医者は適当に原因を推測して薬を出し様子を見ましょうと言うか、自身の知識では測れない場合は原因不明で片付ける。私なら一発で解決する方法を教えるだろう。もし真剣に聞こうという者がいるならば。たとえば私に、つまり肉体意識の私に体調不良が確認されたとする。キツいとか、だるいとか、苦しいとか。私はそれらが偽物であるという真相を知っている。したがって、完全に無関心である。肉体が病気だろうが元気だろうが私には関係がない。重要なテクニックを述べる。...

