瞑想– category –
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チャクラやクンダリーニについて
霊的な接触や融合は、チャクラつまりフォース・センターを含めた内的なメカニズムが発達しないと可能にならない。上からの霊的な働きかけを知覚することもない。自我が聖人の本を読んで言う通りに試してみても何も分からないのは、一つにはメカニズムが未発達だからである。だからといって、メカニズムの発達が目的になることは道を大きく踏み外すことになる。 初心者の特徴を率直に書く。それは自分の解放に夢中な点にある。成長しつつあるとき、自分のことは興味の対象から外れる。それは意識において魂の方が優... -
瞑想とエネルギー
エネルギーの定義 瞑想はエネルギーの科学を扱うものである。真我つまり生命はエネルギーである。ところで現代の科学や物理学はエネルギーをどのように解釈しているのだろうか。よく分からないからウィキペディアを見てみるとこう教えている。 エネルギーという概念が確立したのは19世紀の後半である。それはトマス・ヤングが『自然哲学講義』の中で、従来使われていた「力」を意味するラテン語 vis の代わりとして提案したものである。 語源はギリシア語の「ἐνέργεια」だが、これは「ἐν(エン)」と「ἔργον(エル... -
失敗した人生
悪意を持つ者が敵を陥れるために、発言の一部を切り取り、印象操作をするといった事があるが、マインドも似たような性質を持っている。人は失態を犯したり、失敗したと感じることがある。自分を責める気持ちが強く、気を病む人もいる。そして不幸になり、霊的な道に心の救いを求め、ありふれた教師から、それはあなたのカルマだと言われる。何もかも、カルマの一言で片付けられて困惑する。 カルマとは何なのか。原因と結果の法則とは何なのか。Aという原因がBという結果を招いたと言う。彼は、Aという原因もまた... -
投げ飛ばされる私
外に向かうときは自我、反対方向である内に向かうときは真我。ならば、向かうのは誰か。 「魂との接触」と自我は言う。外に向かっている意識が、反対方向である内を知覚したとき、途方もない幸福とともに内なる実体に溶け込み、私は魂と融合していると言う。その私とは誰か。 「魂の波動」と自我は言う。頭部の上半球を覆い、リズミカルに刺激を与えてくる力、波動を自我は知覚し、魂の波動が苦しいとか心地よいとか表現する。その波動を感じているのは誰なのか。 「私と魂」と人は表現する。違う。魂がマインドを... -
メンタル界での三つの質問
前回に引き続き以下のテキストの引用から。 秘教徒は次の立場をとってはならない。つまり、自分たちが行わなければならないことは、魂との接触がある程度達成された後に自動的に起こる魂による活動をただ消極的に待ち、その結果、やがてアンターカラナの構築活動は、パーソナリティーとトリアッドの両方から反応を喚起するだろうという立場である。このようなものではない。アンターカラナの構築という仕事は主として、魂に助けられたパーソナリティーの活動である。これがやがてトリアッドから反応を喚起する。こ... -
瞑想と意識
自分の本質に覚醒することは、現象的努力を必要としない。悟りは達成されることも強制されることもできない。それはそうする機会が与えられるとき、観念による障害が止まるときだけ、起こることができるだけだ。……観念化を取り除く方法として、考えることを止めようと積極的に努力をすることも無駄な練習であるし、それ以外のほかの種類の「努力」もそうである。唯一の効果的努力は真実を瞬間的に直観的に理解することである。偽物を偽物と見れば、残るものが真実である。今、実在するものが消えるとき、今、不在...