瞑想– category –
-
動力
動物は、動く物と読むことができる。しかし、物自体では動かない。死体は、生きていたときは動いたが、死んだあとは動かない。物を動かす力を動力とも言う。この力はエネルギーである。人体を動かしている動力がある。人間を動かしているエネルギーがある。このことを本当に知るならば、「私」という発想は不可能である。主体的な行為者である私という想像に甘んじることは不可能である。動力が、物を動かしている。この動力を知り、自我を動かしている低位の動力ではなく、高位の動力であるエネルギーに諸体の波... -
或るメモ
今日も朝起きる。気分が悪い。しばらくすると仕事だ。生計を立てるため、嫌なことを堪えて今日も生きている。いわば、生きるために生きている。これが生なのだろうか。しかしこの生は、死によって、やがて終わることを知っている。ならば、生が終わるまで、死が訪れるまで、生きるために苦しみつづけること、生を堪えつづけること、死ぬまでの時間を潰しつづけること、これが生なのだろうか。それに何の意味があるのだろう。考えてもぼくには分からない。だからこんな生は辞退したいと思っている。放棄してしまい... -
痕跡
想念をしずめようとしてはならない。それは、しずめた後の霊的な何かを求めているだけである。まず、内的な霊的自己を見つけることが先である。彼の声を聞くため、彼の意図を汲み取るため、彼の示す道を知覚するためには、想念が邪魔をしていることをわれわれは瞑想中に理解する。そのため、耳をそばだてるにあたって、面と向かうにあたって、彼への興味と集中が、自然に妨害するものである想念を抹消するのである。そこには、想念に対するどのようなコントロール意欲もなければ、想念について誰かや書物が言った... -
湯治
われわれは学習中でも修行中でもない。治療中である。前者は自我において能動的だが、後者は霊的に受動的である。われわれは治療を受けている患者である。見えないこと、分からないこと、これら無知によって生が崩壊し、縛りつける錯覚から自由になるため、精神やマインドを治療してもらっている最中である。この理解を拒み、自分が瞑想し、自分がおのれを治療しているという錯覚の病気が流行っている。人間の定義に関するブラヴァツキーの言葉に、「動物+神」というものがある。その中間にて、われわれは修行者... -
山の病院
ある山岳に、あまり知られていない小さな病院が存在する。誰であれそこへ入院することができる。待たされないし、どれだけ入院していようと無料である。各々の患者に専任の医師や看護師や技術者がつく。彼らは全員、われわれの知るどの人よりも良い人たちである。確かな腕を持ち、ほんのわずかであれ医療ミスという狂いはない。完璧な治療を24時間われわれに提供してくれる。しばらく治療していると疲れるから、疲れたらいつでも自由にしていい。患者同士で遊ぶのもいいし、外出も自由、山を下りればすぐに賑やか... -
無職
瞑想するようになってから、社会生活に困難を感じるようになったという質問について。バランスが分からなくなった。仕事や人付き合いとの両立が不可能に思え出し、果ては会社を辞めて無職となり、恥を忍んで三十を過ぎた男が親の脛をかじるまでになり、実家に戻るも近所の眼が痛々しく、外を出歩くのも億劫で、瞑想を真剣にしているとは言うものの、気づけば無職のひきこもり、気の狂れた世捨て人と言われなじられるまでになり、失敗した人生という感覚に圧倒されている、過去の栄光は過ぎ去り、今は将来への不安...