瞑想– category –
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神の道具
所有の錯覚 重い物も、持てば重いが、見ている分には重くない。自我は持つが、魂は見る。自我は同一化するが、魂は無関心である。自我には存在しているが、真我には存在していない。 所有の原理 持つためには、同じ土俵にいる必要がある。結果の世界で、人は何らかに執着し、それを持つ。言い換えると、結果が結果を持つ。一方で、上空にいる者は、地上の物を見ることはできても、持つことはできない。彼は、上空から万華鏡のように現象世界を眺めるかもしれないが、次の瞬間には自身の世界へ視点を戻すだろう。 ... -
関われば困難、関わらなければ簡単
簡単なことも、人間意識には難しくなる。なぜなら、簡単だと人間には不都合だからである。つまり、「自分」がなくなってしまう。それは困るから、自身に隠れて自身に嘘をつき、自作自演に気づかないふりを体験し続け、物質の誘惑にあえて溺れることで、本物を忘れていたいのである。 魂は、自分という分離した感覚から自由である。この自分があるとき、人は現象世界の住人になり、延々と続く錯覚の犠牲状態に陥り、ありもしない重荷を背負って苦しむ壮大な自作自演が展開される。世界は自作自演である。魂が、三界... -
自己改善
誰が自分を変えうるのか 自分を変えようとしている人は多い。世の中では、自分を変えうるのは自分だけであると信じられているし、絶えず自分を変えるように周囲から圧力を受ける。言い換えれば、偽我で偽我を変えうると信じられている。偽我は、いわば真我を知ることで変容しうるものであるという知識は、人類において広まっていない。偽我は結果である。私たちは、偽我という結果の原因を知らない限り、結果をいくら表向きに変えようとしても、無理だということを知る必要がある。 結果で結果を扱う愚 例えば、傲... -
魂の闇夜
Ⅰ 闇夜 個人つまり低位我が高位我という概念に興味を持っても、それと接触できるようになるまでは、単に闇である。それは、ほとんど当たり前であり、例外なく誰しも経験するものであり、その誰もが自分ほど苦しい者はいないという確信にさえ至る悲惨な時期である。この時期の特徴として、苦しみのあまり、性急に効果を求めるというものがある。これが苦痛に拍車をかける。彼は、分離した個我と自我の感覚により、自分を世の中において中心ないしは主人公であると見なしている。この態度は苦痛を悪化させるだけで... -
目の前の現在
昨日の瞑想と今日の瞑想は同じだろうか。朝と夜とで意識に違いはあるだろうか。良いことがあった日と悪いことがあった日で、精神状態に違いはあるだろうか。つまり、絶え間なく現在は異なる精神下にあるという現実を、我々は瞑想に適用しているだろうか。それとも、刻々と変化する目の前の生きた現実を見ず、特定の瞑想法を信じ、つまりその瞑想法がもたらすであろう結果を求めることで理想を見、霊的な欲望に動かされて結果を欲しがり、死物と呼ぶべき"方法"なるものを、刻々の変化を表現する自身に対してただた... -
意識の置き場所
瞑想でどこに意識を置くべきか、ラマナ・マハリシはハートであると言っているが、記事を読む限りあなたの意見は眉間のように思われる、その見解の違いはなぜ生じるのかという質問について。ラマナ・マハリシと呼ばれた媒体が話した内容は、高位のイニシエートに関係するものであり、それは魂ではなくモナドつまり生命そのものについての話であり、したがって必然的にそれは眉間ではなくハートである。 一般的な全体像として考えるならば、瞑想を始めて間もない場合、眉間のセンターを意識することが安全であり、そ...