瞑想– category –
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賛美歌
瞑想から出て、一時的にこの世に身を晒し、また目を曝すならば、この世はまた新たな戦争と戦火にさらされている。神は美である。我々が神を忘れ、真我から離れ、個我に屈するならば、その世界は醜悪である。しかし、魂と霊の賛美歌意識からすれば、この醜悪さもまた美と完成における不可欠な部分であり、あらゆるものがそうであるように、善きものである。躓き傷ついた者がより強靭になって立ち上がるように、外的な完成はあらゆるものの見た目上ないしは感覚知覚上の一時的な犠牲を伴う。人類は、神の意識や、神... -

真我顕現
私は、これを書いている男と無関係であることに喜んでいる。この文章は、すべての人に当てはまる。誰もが、自分を信じて生きている。それが彼だろうが彼女だろうが、本物とはいっさい無関係である。彼が悪いことをしたとしよう。普通の彼は罪悪感に悩み、悪事に対するこの世の報いに苦しむ。自分が悪事をしたと考えているのである。彼は、条件づけられた身体の行為に責任があると思っている。ところが事実は、身体やその行為は、この世に属するものであり、この世の連鎖の必然的な部分でしかない。そこに善悪はな... -

キリストの再臨
肉体と精神を分けて人は想像するが、それはあくまで想像上の解釈である。現象的に見て、肉体の病であるとか、肉体的な不調といったものに苦しんでいる人は多い。それは耐え難いものである。しかし、瞑想の真髄を理解するならば、瞑想後には、そのようなものが消えていることを発見するだろう。例えば、肉体的な苦しみで眠ることもできないとしよう。瞑想を知っている者は、その苦しみという無知に堕落していたとしても、瞑想に入りさえすれば、物質界のことは分からなくなり、つまり感じることもできなくなり、無... -

交易商
本を読み、「覚者」の言葉の意を汲み取ろうとする者は、愚かである。この愚か者は、自我である。自我は、成熟するにつれ、自我の終焉を望むようになる。それは不可能である。そのような本に書いてある状態に帰るような者とは、そこに書いてあるような話とすら交わらない者である。書いてある内容は、そのような者にとっては自明の話であるか、工夫された異なる表現でしかなく、学ぶものは何一つない。なぜなら、霊的な学びとは知的な理解ではないからである。人間は、そのような知性しか知らないため、学力のよう... -

魂の夜明けまで
結局、みな、何かを求めている。つまり、空虚さが原因である。そして、空虚が何かを知らないことが原因である。明らかに、外の世界に求める価値のあるものはない。それはいずれも空虚さを膨張させる作用しか持たない。すると、我が内の、その空虚さが何なのか、見るよりほかになくなるだろう。 しかし、誰が見るのか。動機や下心でその自我が見るのか。これは再び何かを求めることに当たる。真我の顕現が起きるならば、そこに、する人はいなくなるため、純粋な視覚だけが残る。あるいは純粋な気づきだけが残る。し... -

喜べなかった者へ
「今喜んでいい」の命題とその転換点 前の二つの記事を読んで、あなたは喜べなかっただろうか。「今喜んでいい」という号令は、自分には適用できないものだと結論づけたであろうか。「今喜んでいい」という呼びかけは、許諾と選択の性質を持ち、完全にあなたに依存している。つまり、「今喜んでいい」という命題が、もはや素材による条件づけに依存しないということが明らかになるとき、自我――すなわちマインドは、「今喜んでいい」という事実を「知る」ことになる。この「知る」とは、ただ認知することではなく、...





