瞑想– category –
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在るの影はする2
「在る」ではなく、「する」へと駆り立てる人間の力とは何か。この人間の衝動を、「在る」という存在の深淵で制し、鎮めようとする魂の奉仕、個我がこの不眠不休の奉仕に頭を垂れ、一致しようとし始める回帰運動、これが瞑想である。この神聖な営みは、あらゆる「する」への執着を超克し、ただ「在る」という境地へ誘う。「在る」そのものの状態において、我々は地上の分離した個人意識を離れ、言葉ではあらわしえぬ根源へと回帰する。それは、単なる快楽や一過性の幸福感などという卑俗な気分や感覚をはるかに凌... -
在るの影はする1
瞑想における真剣さとは何なのか。日常の一瞬一瞬に浸透する、瞑想的な生き方における真剣さとはどのようなものなのか。それは決して「頑張る」ことではない。努力や精神力と呼ばれる硬直した力みでもない。それらは、個我という小舟が掻き立てる波風に過ぎない。それは行為であり、行為とはすなわち、動機や目的に縛られたあてもない旅路だ。今ここに在る地点を否定し、遠い遠い岸へと無理やり渡ろうとするあがきであり、それは「存在そのもの」に対する抗いの影を孕んでいる。 瞑想がもたらす最も深遠な啓示、そ... -
恵まれている自覚
どれほど厳しい人生に見えるとしても、正しい瞑想に導かれた生涯は、極めて稀で幸運なカルマがもたらしたものであるに違いない。しかし、「霊的に目から鱗が落ちる」瞬間まで、未来はあえて隠されるべきものであり、この見方に同意するのは難しいかもしれない。同様に、隠された過去が明らかにされるとき、なぜ自分がこのような人生を歩むことになったのかを我々は深く理解するだろう。そして瞑想できる環境や、霊的なアイディアに反応できる諸体を纏って生まれてきたことに感謝するだろう。 現在、世界中で尋常な... -
切迫感というグラマー
「マインドを超えてゆくこと」や「マインドの彼方」、これらを聖者方は強調して伝えますが、私には瞑想でどうすればよいのか、どう在ればよいのか、これについて何年も分からないままでいます。 それは分からなくてよい話である。多くの人が逆に考えている。事実は、超えた後、超えたことが理解されるのである。超える前、それについては何も分からないし、分からなくていい。超越を期待してはならない。 私は切実に真我を求めています。残りの人生は短く、切迫感をもって瞑想しています。「求めよ、さらば与えら... -
聖者の病気
聖者の病気についてどう思われますか。調べてみると、多くの聖者が最終的には癌などで亡くなっているようです。もしくは死因が隠されています。こういう現実を直視するとき、彼らが偽物だったのではないかという疑念がわきます。本物の聖者であれば、病気になることもないでしょうし、なったとしても治療できると思います。例えばキリストは何でも簡単に癒やしました。そこまでではないとしても、日本では松下松蔵なども簡単に人の病気を治しています。 睡眠中ですら世界は知覚されていない。肉体ではなく、コーザ... -
なぜ「私」に集中するのか
なぜ聖者たちは「私」に集中するよう説くのでしょうか。また、それが「明け渡し」と同じであると説くのでしょうか。 まず根本的な事実を述べる。それは、すべてはエネルギーであるというものである。そして、我々が転生してくるこの三界は、低位の質料で構成されている。この質料は活動するエネルギーであるが、純粋なエネルギーではない。上に従っているものではなく、下に従っているエネルギーである。霊ではなく物質に従うエネルギーである。後者のエネルギーは、原初の純粋さから分離して、別のものに条件づけ...