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聖
本当の幼年、私たちが真に子供であったとき、警戒を知らない時代があった。純粋さゆえの無警戒、記憶や知識が決して人を条件づけない地上の天上意識、知性も経験も過去も維持されながら、なお子供以上に子供であり、静かな喜びや嬉しさが支配する天真、この無色と純白がハートを通して蘇るとき、大人は驚愕しつつ、しかしこの感覚をぼくは覚えていると言うだろう。顔つきから邪まなものは取り去られるだろう。誰に対しても、何に対しても、純白すぎて警戒をする必要がなく、恐れがなくなるとき、これほど生は素敵... -
法則との一致
我々は「意識」という言葉を使うが、通常、その言葉の背後には「自分」が存在する。意識を認識している者である。この者は、人間においてはマインドである。よってマインド意識が自我意識であるのに対して、この者が消し去られてもなお存在するより広大な認識する者をやがて我々は理解する。この、我ならぬ我、これは様々な言葉で命名されているが、本来は命名してはならない。概念化した瞬間、それを捉えることはできなくなる。前者の我つまり自我と、後者の名づけえぬ我の違いを、ここでは一点に集約したい。そ... -
解放というナンセンス
もし現象と非現象の間の基本的融合が見失われれば、対象化と観念のぬかるみの中で行き詰まってしまうだろう。いったん、非現象は私たちであるすべてであり、現象は私たちが分離した対象物としてそう見えるものであることが理解されれば、どんな実体も私たちの本質に関係することはできないこともまた理解され、それゆえ解放を必要とする実体という観念がナンセンスなものと見なされることであろう。そして「解放」がもしあるとすれば、まさに束縛と解放という観念からの解放であることが分かるだろう。 「ニサルガ... -
子供の老衰
ある肉体に与えられた特定の名前がある。この肉体や名前を私とみなしている私とは思考である。この意味において、思考と思考者(私)は同じである。しかし、その背後に隠れた私が在る。これが真我である。隠れても秘められてもいないのだが、思考者としての私が、その私を前提とした思考に対し、次々と同一化するため、気づく暇がないのである。イニシエートが「思考と思考の隙間にそれは在る」と言ったのはこの意味である。同一化とは、思考でしかない方の私が、その私から始まる種々雑多な思考に対し、「私の考... -
目に関する対話
長らくあなたの記事を読んできましたが、大きな懸念があると言わざるをえません。前回の対話のなかで、「自我は疑い深い目には耐えられない」というフレーズに私は着目しました。そして自身を見ました。私というものを見ようと、まさに疑い深く見つづけました。しばらくすると私は疲れてしまい、私の目は実りをもたらさず、どうせ私は自我なのだから無理に決まっている、といういつもの落胆に襲われました。私の懸念点とは、この目についてです。気づくこと、見ること、これは私の目つまり心の目ではなく、私の知... -
時間に関する対話
進歩に時間がかかるという、おそらくは事実であることを君は否定している。 事実は解釈である。そしてあなたは、進歩に時間がかかると解釈せざるを得ない。なぜなら、人間の自我意識を見ているからである。それは不完全であり、達成できない苦しみに満ちており、その葛藤に対し近視眼を余儀なくされている。だからあなたの事実と現在は、苦悩である。この者ですら、眠りに落ちると苦しむ自分を忘れるのである。したがって、苦悩や解釈や事実は、あなたが眠りから目覚めた後に自分で決めたことである。 自我意識で...