2023年– date –
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制圧のプロセス
アートマンは死んだ心、つまり想念のない、内側に向かった心によって実現される。そのとき、心はそれ自身の源を見て真我となるのである。それは主体が客体を知覚するような状態ではない。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」 p.92 実際起こることは、アートマンつまり魂の感覚が徐々に自我意識を上回り、最後に破壊を引き起こすだけである。「内側に向かった心」は、自我の瞑想における努力ではなく、魂のエネルギーの引力が諸体のフォースの引力を制圧した結果、強力な内的集中が起きただけである。そのとき、自我... -
行為から観照へ
行為者は責任感覚を背負う。これにより人間は三界にて経験と苦楽を味わうことが可能になる。行為を観る者へと引き下がれば一切の不安、恐怖、苦痛から自由である。それは必然的に対をなす快楽や欲望や幸福といったものからの自由も意味する。自我は、個人を動かしている原因なき原因つまり神をもっと敬う知性に導かれる必要がある。唯一なる神が行為者であり源である。彼を通り越えて個人を所有するならば良きにつけ悪しきにつけカルマを始動させる。つまり解放を延期させる。彼と調和するならば大いなる我のうち... -
行為者からの自由
分離した個人という行為者の感覚。これは根本的な闇である。長きにわたり、人間を支配するのはマインドである。マインドが支配されつつあるとき、人は、その特定の人としての行為感覚に苦痛を感じるようになるだろう。つまりマインドとの誤った同一化である。行為者はいない。行為者を主張するのは自我である。自我の行為感覚ではなく、行為を観る意識存在と同一化する識別力が必要である。これは絶え間のない識別であり、それを可能にするのは間違いを警告する苦痛である。我々は、苦痛に敏感にならなければなら... -
瞑想は終わらない
「瞑想を終える」と我々は言う。本当だろうか。瞑想する人がいて、三十分か一時間ほど瞑想をして、日常に戻ろうとする個人がいる。このような時代はやがて終わる。自我は真我に勝てない。我々は真我である。どうして瞑想を終えることができるだろうか。誰が日常に戻るというのだろうか。錯覚の時代、瞑想は真我へ至る手段である。しかし人の意識と感覚において内なる存在が覚醒を得て、優勢になり、やがて圧勝しはじめるとき、瞑想は終わらなくなる。瞑想を中断させる妨害者はいなくなる。自我は小声になる。自我... -
魂と出会いし者
瞑想に動機は必要だろうか。動機は欲望であり、その主は自我である。自我が行う瞑想は途切れることなく外へ向かっており、せわしなく錯覚の谷間を縫う。内なる輝きは、自我つまり思考と情緒の騒々しさの中に秘められる。霊的な野心から瞑想へ向かう自身の傾向を捉えた人は、それが瞑想を邪魔している事実をありのままに見る必要がある。思考が思考する「自分」という思考者は思考である。思考内のこのループをわれわれは苦痛と呼ぶ。 だから、ただ在る。人はこれができないと言う。「人として」しようとするのだろ... -
魂への実践的瞑想
霊的な目覚め 通常、無知な人々は、最初に七つのチャクラを客観的に研究することから始め、それらのチャクラに感覚を引き起こしてその場所と特質を意識するために、サイキック的な実践を行う。そしてその後に、瞑想を通して魂と接触するよう努力する。この順序は間違いである。人間は最終段階でそれらのチャクラに気づくようになるべきである。というのは、チャクラがその一部である形態様相ではなく、魂を強調し、魂と同一化すべきだからである。 アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」 p.182 「スピリチュアル」...