アリス・ベイリー– category –
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鬱病と瞑想
低位の力と高位の力がある。平均的な人間意識は、低位の力しか知らず、何事も低位の力で行っている。それは、低位我を自分と考えているからである。低位我というものは存在せず、それは想念が想像している想念でしかない。言い換えれば、思考者は思考が考案したものである。低位我や自我は実在していない。高位我つまり真我に抵抗して、一なる生命から独立して、肉体や思考や精神や感覚知覚や名前といったものを自分であるとか自分のものであるとか考えるため、そこに不調和と摩擦が生じ、苦しみを感じるか(普通... -
瞑想と意志
エゴ(魂)の意志がその反映であり、個人の自我意志がその歪曲であるモナドの意志がアンターカラナを経由して徐々に物質界にいる人間に直接伝えられる。……個人の意志とエゴの意志は、私たちがその中で生き、動き、存在する方の目的であるモナドの意志に同化される。これが真の燃焼が起こる領域である。 アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 上 」p.52 より正確な翻訳を試みるとき、瞑想は集中ではなく意志である。個人意識は、人間の自由意志しか知らない。この場合、認識できるのはフォース面のみであり、... -
謙虚さ
呼吸困難に陥った人は苦しみもがく。ここで彼を元の状態に戻してやれるならどうだろうか。必死で空気を吸い込み、そして吐く。まさに息ができるということに、彼は強烈に感謝するだろう。しかし、彼は生まれてこの方、息や呼吸を当たり前だとみなしてきた。吸っては吐くという命の恵みに生かされながら、それを忘れ、呼吸を当然のものとし、いわば傲慢に陥っていたことに気がつく。神秘な生命の力が、自然な呼吸を与え、われわれを生かしてくれていたことを思い起こす。彼の力なくして、われわれは息すらできない... -
法学
法を守りつつ裁かれる者はいない。法に生きていながら、同時に罪を犯した者はおらず、よって罰せられた者もいない。真理の領域に冤罪はなく、天網は愛として無限にゆきわたり、現象の世界で起こる出来事にはいかなる偶然もありはしない。かつての行為の種を、われわれの名や形は刈り取るが、それに対しては法則内から、つまり法を破ることなく対処することで、さらなるカルマが生み出されることはなくなる。これを知ることが解脱である。というのも、真の瞑想において、われわれは完全に法則に入り、自我や感覚知... -
瞑想における主体と客体
私は現在瞑想をしていて、何か怒りや悲しみ、その他微妙な情緒的反応がある場合、それらを知覚・認識し、それぞれ「怒り」「悲しみ」「自己憐憫」「欲求」「妄想」など心の中でラベル付けし、これらをアストラル・フォースであると認識したうえでに巻き込まれない(同一化しない)ようにしております。アストラル・フォースの識別とは、私がやっている、情緒的な反応が生じた場合、それに気づき、その内容を分析しこれをアストラル・フォースであると認識する(同一化しないため)という手法でいいのでしょうか? ... -
エネルギーとフォースの衝突
二つの衝突 病気が次の二つの方法で生じることに気づくであろう。 エネルギーとフォースの衝突によって フォース同士の衝突によって アリス・ベイリー「秘教治療 下」 p.250 人類の一般的な病気は2の範疇に入るが、第一イニシエーション(もしくはそれ以上)を受けている弟子の場合は1が加わることになる。より高い段階であるほど、その性質は1に属するものとなる。ここでは病気に関して話すのではなく、これが瞑想や瞑想生活においても同じであることを示したい。なお、引用冒頭の「病気」という単語を、「苦痛」...