瞑想– category –
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個人は関係ない
個人が有能だろうが無能だろうが、美しく咲き誇ろうが惨めに枯れていようが、魂からすれば何の関係もない。そもそも個人とは何なのか。ただの精神の産物であり、想像や記憶や解釈でしかない。こんな無意味で不正確な一時的なものと、なぜ関わる必要があるだろうか。情緒も想念もなくなれば、どこに個人など存在しうるだろうか。ただ、そういうものにしがみつかせる恐れや欲望が、勝手に個人を主張しているだけである。この騒音の背後に、無関係者として真我は在る。個人という万華鏡に魅せられているのは個人だけ... -

魂の波動に関する質問
世間には禅寺で1日8時間瞑想をする修行者も珍しくありませんし、ミャンマーやタイの仏教の修行場では1日12時間の瞑想を毎日繰り返しているそうです。 瞑想は修行ではなく、長時間する必要もありません。自我にはそういうスタイルは人気が出るでしょう。修行した気分にはなれますから。 彼・彼女たち全員が魂の波動を感じているかといえば、違うのではないかと思われます。 魂と接触しているならば、なぜ他人の教えや規定に従う必要があるでしょうか。何も分からないから権威のある人に依存するのです。瞑想は万人... -

意識の引き戻しに関する質問
私は瞑想を続けておりますが、記事を読み大いに助けられております。私は記事の中に出てくる失敗事例のほとんどを体現しているため、なぜ瞑想を毎日続けているのに上達しないのか、なぜ失敗ばかり繰り返すのか、朧気な理解ができるようになりました。私の理解するところによれば、私という自我は、メンタル・アストラル・肉体のエナジーの重なり合った結晶点ないし交差点のようなものであり、常に流動する性質があるため、この自我において瞑想しようとすれば、諸体のエナジーをかき回す、あるいは諸体のエナジー... -

I AM
合一の啓示 前回書いた瞑想が進展するとき、意識よりも存在、第二様相よりも第一様相、ヴェールを剥がれた魂に秘められた生命そのもの、つまり真我の兆し、存在自体に人間は感応できるようになるだろう。それは、顕現している一切のものの真我であり、根底に流れる命であり、人間が知りうるかぎり最高の純粋である。純粋とは、完全にサットヴァであるという意味である。この純粋を、魂と融合しているパーソナリティーがわが内にて知るのである。このとき、もはや崇高な意識状態よりも、その意識の背後の実体の方が... -

実践的瞑想法
私意識があり、行為者の感覚があり、努力しか出来ない段階の瞑想について。ここでは、努力が出来なくなる段階に至るまで、どうすべきかを自我感覚に向けて解説する。アストラル体を静めたならば、メンタル体の統御に取り組むことが可能になる。これは重要な点であるが自明であり、過去に多く書いてきているためここでは詳細を省く。以下は、瞑想で魂から習った瞑想であり、マインドの統御において使用したものである。 アジュナ・センター 眉間より少し上の頭部の内側、脳下垂体と両目、および頭部の前面部分全体... -

何もしない瞑想
瞑想は何もしない。これを自我で解釈すると、ただ空想することになる。それは何かしているのである。空想をしている。自我は、想念と同一化していたことに、ただ気づくことができるだけである。気づくと、同一化は失われ、対象の想念はなくなる。つまり養分不足で死滅する。空想を続けるなら、その思考には生命力が吹き込まれ、十分に強く、詳細で、持続的なエネルギーが加えられた場合は、いわば現実化する。これを平均的な自我は意図的にできないが、無意識に同じ思考傾向を繰り返しているため、同じような現実...






