2023年1月– date –
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魂と出会いし者
瞑想に動機は必要だろうか。動機は欲望であり、その主は自我である。自我が行う瞑想は途切れることなく外へ向かっており、せわしなく錯覚の谷間を縫う。内なる輝きは、自我つまり思考と情緒の騒々しさの中に秘められる。霊的な野心から瞑想へ向かう自身の傾向を捉えた人は、それが瞑想を邪魔している事実をありのままに見る必要がある。思考が思考する「自分」という思考者は思考である。思考内のこのループをわれわれは苦痛と呼ぶ。 だから、ただ在る。人はこれができないと言う。「人として」しようとするのだろ... -
魂への実践的瞑想
霊的な目覚め 通常、無知な人々は、最初に七つのチャクラを客観的に研究することから始め、それらのチャクラに感覚を引き起こしてその場所と特質を意識するために、サイキック的な実践を行う。そしてその後に、瞑想を通して魂と接触するよう努力する。この順序は間違いである。人間は最終段階でそれらのチャクラに気づくようになるべきである。というのは、チャクラがその一部である形態様相ではなく、魂を強調し、魂と同一化すべきだからである。 アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」 p.182 「スピリチュアル」... -
夢とは何か
夢は、日頃からマインドを統御していない者が見る雑念の延長である。したがって夢は苦痛である。「知的怠慢」の罰である。思考がほったらかしにされており、そこには意識と無意識のエネルギー的な対立がある。その齟齬と摩擦が人に夢の苦痛性を認識させるのである。一般の人は無意識に夢と惰眠を貪って問題を感じないが、瞑想者は、いかなるときも意識つまり気づきの監督下から自身を放り投げてはいけない。それは無意味である。絶え間のない意識の目覚めが肉体の眠りを保護すべきなのである。自我だけが眠る。真... -
奇跡の子供
人は、命名された肉体、それが歩んできた歴史、いわばプロフィールという重荷を背負っている。何と残酷なことか。そのうえ、社会という共同体のなかで、信念や理想といった厄介事を背負い、「ねばならない」という観念で自らを脅迫し続けている。結果として、生は比較であり、勝ち抜くことであり、愛ではなく対立であり、途方もない苦痛をもたらす災いとなる。そこで誰かが「頑張れ」と言う。「負けないで」と鞭を打つ。辛すぎる応援歌。精神は疲労困憊しており、もはや耐えられる状態にないが、環境がそれを許さ... -
第一イニシエーション
秘教徒が述べる第一イニシエーションは、肉体の統御と関係しており、霊的な道に対する自我の意志が確固とした揺るぎのない点にまで到達したことを記すものである。彼の内側で、個人の欲求ではなく、霊への欲求が勝ったことを意味する。これは簡単な説明である。彼は普通の人の生活に戻れないことを理解する。何度も失敗し、戻ろうとするかもしれないが、戻れないことを経験する。かつて親しかった人々との間にはもはや興味と認識に一致点は見つからず、孤独な霊の道しかなくなったことを認識する。それは基本的に... -
新時代の芸術
思考内での葛藤 瞑想にて、思考が思考をコントロールしようと思考する。これを完全に無意味とは言わないが、通常は無意味である。簡単に言えば、これは自我の動きの一部である。ヴィヴェーカーナンダの言葉を借りれば、「もしマインドを慌ただしく表現しようとする変異があり、ヨギがそれをコントロールしようとしているならば、そのコントロールそのものが変異であろう」。この想念の支配欲そのものが障害であり、低位マインドの動きと変異そのものであることを初期段階では表している。 これは、人間の低位マイ...