瞑想– category –
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瞑想論 -形態の破壊-
前文 真の瞑想は知的なものである。理想や観念に漠然と向かうものではなく、また理論を梯子にする固定的な方式に縛られることもない。より啓明された自我、つまり高位亜界の物質を組み込んだ人間による瞑想は、そのときに同一化し閉じ込められている形態の認識と破壊を意識的に行うものである。これは、自我意識からすれば魂と共同で行う作業であるが、実際に知的であり実際に形態を粉砕するのは魂である。自我はみずからの意識を生み出す原因である形態を知覚認識し、アジュナ・センターから魂エネルギーつまりコ... -

門
それはただ美しい。何もかもが美しいならば、法則もまた美しいのである。それは完全ゆえに美しい。おのれを不完全と見なす者は、瞑想によってここに辿り着くだろう。それは在り、それしかないが、瞑想すれば運ばれるだろう。自我はここに来れない。人間として辿り着こうと抵抗してはならない。この宮は在るが、門を叩くとき、「私は何某だが」と言っても反応はない。手ぶらの者、所有せぬ者、裸の者だけが迎え入れられる。ここは名を持たぬ者、限定せぬ者、白痴や赤子のような「染まってない者ら」が、ただ無邪気... -

われ光なり
瞑想は独学である。誰も教えないだろう。外的な教えは知識として人間を満足させるが実践には向かない。それは自身が見て体験した知恵ではないからである。独学とは、自我が魂から学ぶという意味である。魂の声は沈黙の声である。この声は、人間の騒音がかき消された時に聞こえるようになるだろう。人間の騒音とは、アストラル体とメンタル体の騒音のことである。これらのフォースは通常、暴走している。あてどなく彷徨う亡霊であり、愛に飢えた狼、生きることで苦しみを表現する飽くなき涙である。獣に理性を与え... -

自我の破壊
前文 自我は、瞑想で何かをすると思っている。自我は何かをされる側である。そのため、「私」や「意識」へ注目を向けるというアイディアが提唱されてきた。しかし言語や手法は瞑想に通用しない。行為は瞑想ではない。自我の訓練や意図は早い段階で捨てられ、去るものである。やがてこれが知られるだろう。瞑想そのものが教えるだろう。思考との無闇な同一化が過ぎた後、フォース体でしかない「私」という形態に破壊の照射が可能になる。 目覚め 瞑想過程 1 2 3 向き 結果 初... -

アストラル体の扱い方
アストラル界の自覚 人類は欲求(良い欲求、利己的な欲求、間違った欲求、霊的な欲求)に条件づけられている。 アリス・ベイリー「秘教治療 上」 p.214 現代の探求者における主要な課題はアストラル体にある。この界層に囚われている限り、あらゆる感情や欲求が現実感を伴い、肉体を支配し動かす。我々は欲求体が静止した状態を知らず、その静謐のもたらす魂の報酬に気づくことも少ない。むしろ、我々はしばしばアストラル・フォースそのものである霊的欲望の犠牲者となる。そして、望まれる達成がないとき、霊的... -

成長と助力
前の記事で不正確つまり不用意な発言があったため幾らか削除した。それらの意図は、前線に茫漠と広がる難易度に対する消極的な諦めの打破であった。また、神秘的な体験が強調されるあまり、自我の新たな欲望へと堕落しがちであり、現実的な目標ではなく、霊的野心の体験へ向けられた欲求と想念の私的な形態が瞑想を妨害し、自身を危険にさらしていることを示すことにあった。しかし正確に言うならば、確かに、自我意識の見地からは超越的な体験つまり意識状態はあるだろう。また、細分化するならば条件つまり前提...






