2023年– date –
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魂の闇夜
Ⅰ 闇夜 個人つまり低位我が高位我という概念に興味を持っても、それと接触できるようになるまでは、単に闇である。それは、ほとんど当たり前であり、例外なく誰しも経験するものであり、その誰もが自分ほど苦しい者はいないという確信にさえ至る悲惨な時期である。この時期の特徴として、苦しみのあまり、性急に効果を求めるというものがある。これが苦痛に拍車をかける。彼は、分離した個我と自我の感覚により、自分を世の中において中心ないしは主人公であると見なしている。この態度は苦痛を悪化させるだけで... -
目の前の現在
昨日の瞑想と今日の瞑想は同じだろうか。朝と夜とで意識に違いはあるだろうか。良いことがあった日と悪いことがあった日で、精神状態に違いはあるだろうか。つまり、絶え間なく現在は異なる精神下にあるという現実を、我々は瞑想に適用しているだろうか。それとも、刻々と変化する目の前の生きた現実を見ず、特定の瞑想法を信じ、つまりその瞑想法がもたらすであろう結果を求めることで理想を見、霊的な欲望に動かされて結果を欲しがり、死物と呼ぶべき"方法"なるものを、刻々の変化を表現する自身に対してただた... -
意識の置き場所
瞑想でどこに意識を置くべきか、ラマナ・マハリシはハートであると言っているが、記事を読む限りあなたの意見は眉間のように思われる、その見解の違いはなぜ生じるのかという質問について。ラマナ・マハリシと呼ばれた媒体が話した内容は、高位のイニシエートに関係するものであり、それは魂ではなくモナドつまり生命そのものについての話であり、したがって必然的にそれは眉間ではなくハートである。 一般的な全体像として考えるならば、瞑想を始めて間もない場合、眉間のセンターを意識することが安全であり、そ... -
道の苦しみ
霊的な熱意や大望を抱き、錯覚から抜け出さんと歩みを進める人間は、相当な苦しみを体験する宿命にあるだろう。なぜなのか。ここを自ら解き明かさぬ限り、霊的な道であれ人間的な生き方であれ、永遠に苦痛から免れることはない。そして、人は苦痛を厭い、苦痛のない状態を目指そうとすることで失敗する。自我で生きることで傷つき疲れ果て、自我ならぬ意識、真我や悟りや進化を求めることで失敗する。このようなものを求めるとき、そうでない自分として苦しむのである。到達できない自分や、世の中の出来事に苦し... -
アストラル体の統御と魂のエネルギー
アストラル体を統御するために魂のエネルギーが必要であるとの記述と、魂のエネルギーを呼び起こすためにアストラル体の統御が必要であるという記述において、いささか自家撞着に陥ってはいないかという質問について。つまり、アストラル体の統御と魂のエネルギーとの接触の、どっちが先かという問いについて、まずは以下の表を用いて考えていきたい。 意識レベル 扱う対象 1平均的な人間三界における現象世界のフォース。見習いの弟子つまり浄化の道にある熱誠家 2弟子魂のエネルギー... -
そのまま
Ⅰ 我々が真我を求めるとき、我々は真我を否定している。我々が「こうあらねばならない」と言うとき、真我を否定している。我々が自身の行為に駆り立てられるとき、真我の輝きを押し込めている。我々における大いなる無知の一つは、そのままで良いことを知らないことである。そのままであるとき、我々の生は嬉しいものになる。生きる価値のあるものになる。生きていることが喜ばしいことに気づく。我々を、そのままから動かし、そのままを否定しようとする衝動は、すべて惑わしである。そのままは、記憶から自由で...