瞑想– category –
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行為者からの自由
分離した個人という行為者の感覚。これは根本的な闇である。長きにわたり、人間を支配するのはマインドである。マインドが支配されつつあるとき、人は、その特定の人としての行為感覚に苦痛を感じるようになるだろう。つまりマインドとの誤った同一化である。行為者はいない。行為者を主張するのは自我である。自我の行為感覚ではなく、行為を観る意識存在と同一化する識別力が必要である。これは絶え間のない識別であり、それを可能にするのは間違いを警告する苦痛である。我々は、苦痛に敏感にならなければなら... -
瞑想は終わらない
「瞑想を終える」と我々は言う。本当だろうか。瞑想する人がいて、三十分か一時間ほど瞑想をして、日常に戻ろうとする個人がいる。このような時代はやがて終わる。自我は真我に勝てない。我々は真我である。どうして瞑想を終えることができるだろうか。誰が日常に戻るというのだろうか。錯覚の時代、瞑想は真我へ至る手段である。しかし人の意識と感覚において内なる存在が覚醒を得て、優勢になり、やがて圧勝しはじめるとき、瞑想は終わらなくなる。瞑想を中断させる妨害者はいなくなる。自我は小声になる。自我... -
魂と出会いし者
瞑想に動機は必要だろうか。動機は欲望であり、その主は自我である。自我が行う瞑想は途切れることなく外へ向かっており、せわしなく錯覚の谷間を縫う。内なる輝きは、自我つまり思考と情緒の騒々しさの中に秘められる。霊的な野心から瞑想へ向かう自身の傾向を捉えた人は、それが瞑想を邪魔している事実をありのままに見る必要がある。思考が思考する「自分」という思考者は思考である。思考内のこのループをわれわれは苦痛と呼ぶ。 だから、ただ在る。人はこれができないと言う。「人として」しようとするのだろ... -
魂への実践的瞑想
霊的な目覚め 通常、無知な人々は、最初に七つのチャクラを客観的に研究することから始め、それらのチャクラに感覚を引き起こしてその場所と特質を意識するために、サイキック的な実践を行う。そしてその後に、瞑想を通して魂と接触するよう努力する。この順序は間違いである。人間は最終段階でそれらのチャクラに気づくようになるべきである。というのは、チャクラがその一部である形態様相ではなく、魂を強調し、魂と同一化すべきだからである。 アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」 p.182 「スピリチュアル」... -
夢とは何か
夢は、日頃からマインドを統御していない者が見る雑念の延長である。したがって夢は苦痛である。「知的怠慢」の罰である。思考がほったらかしにされており、そこには意識と無意識のエネルギー的な対立がある。その齟齬と摩擦が人に夢の苦痛性を認識させるのである。一般の人は無意識に夢と惰眠を貪って問題を感じないが、瞑想者は、いかなるときも意識つまり気づきの監督下から自身を放り投げてはいけない。それは無意味である。絶え間のない意識の目覚めが肉体の眠りを保護すべきなのである。自我だけが眠る。真... -
奇跡の子供
人は、命名された肉体、それが歩んできた歴史、いわばプロフィールという重荷を背負っている。何と残酷なことか。そのうえ、社会という共同体のなかで、信念や理想といった厄介事を背負い、「ねばならない」という観念で自らを脅迫し続けている。結果として、生は比較であり、勝ち抜くことであり、愛ではなく対立であり、途方もない苦痛をもたらす災いとなる。そこで誰かが「頑張れ」と言う。「負けないで」と鞭を打つ。辛すぎる応援歌。精神は疲労困憊しており、もはや耐えられる状態にないが、環境がそれを許さ...