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頂きは我が内に
何もしなければ真我である。ところが自我は、「何もしないでおこう」と言うのである。それは試みであり、何もしないでいることで得られる何かを期待する行為である。常に駆り立てられている、自我の活動の一環である。 ないものを得るという過程、これは苦痛である。手に入れたいものがあることは苦痛である。錯覚に生き、分離や個人を真実と見なす精神であれば、それはあらゆる架空の惨事に巻き込まれに行くだろう。 何もしない状態、自我が何もできない状態を教えるのは魂である。外の仮象ではなく、内なる臨在... -

無題
自我は、それ自身の病気性に苦しんでいる。この苦痛を理解できない場合、人生が楽しいと言う人になる。いかに外的に恵まれていても、ただ生きているだけで苦痛であると認識するならば、それは良い病気である。この良性の自我の病気が真我である。なぜなら、この病気の苦痛とは、いわば、外へ向かう自我と、内そのものに充足する真我との摩擦のことだからである。 人間も、病気の時は活動よりも休息を良いものと見なす。ちょっと休ませてくれと言う。気力や体力がなく、動くのが辛いから休みたい言う。気力や体力は... -

聖者との交わり
退屈で面白身のない毎日。朝起きると苦痛。起き抜けの不快を忘れてもっと寝ていたい。しかし、楽しみがある日は、喜んで起きるのである。明らかに、自身の感覚の原因は自身である。マインドの態度、姿勢、解釈に由来している。ここに何かヒントはないものだろうか。というのも、つねに幸せでいてもらいたいからである。 不快は喜びに変わる 起きて不快感を覚えた場合。平時から静かな精神であれば、その不快感からけっして目をそらさず、不快感をただ見るだけで、喜びに変わることを知る。もともと在った魂の喜び... -

アストラル瞑想からの自由
実践的瞑想法では、アストラル体の統御が課題である段階については書かなかった。この記事では、その段階の瞑想で何をなしうるか、どうあるべきか、考えてみたいと思う。まずは、アストラル性質の代表的なものからいくつか見てみよう。 動機が欲望 そもそも、アストラル体に偏極している状態とはなにか。アストラル体は欲求体である。例えば霊的な野心が動機で瞑想する段階もある。悟りたい。解脱したい。自我を超越したい。クンダリーニの火を覚醒めさせたい。ワンネスやサマーディーを体験したい。進化段階を高... -

無題
人は風景を見て美しいと言うが、その人もまた風景の一部である。個人と風景は、ともに魂からすれば季節であり、天候であり、色彩であり、移ろいゆく変化の表現である。世界や部分はめいめいが好きなように振る舞うだろう。その意味においては自由である。しかし万物の霊長である人間だけが、自由意志のなかに不自由を見ることができる。それが自由ではないこと、自分が限定されているという苦しみを知覚することがいずれは可能になる。ならば、何が限定しているのであろうか。この問い自体がもはや瞑想である。目... -

ナルシシズム
「私にも可能だろうか」と多くの方が心配する。理由を聞くと、「ふさわしくないから」と仰る。何がふさわしく、何がふさわしくないという尺度は誰にとって存在しているのだろうか。本人が決めているのである。想像と思い込みであり、予測であり、先入観である。「であるに違いない」と言いたがる。謙遜ではなく恐れである。過去に殺人を犯しているのでと言う。奔放で迷惑な生き方をしてきたからだと言う。罪を償う準備はできているが、善や慈悲や愛は受け取れないと言う。「ふさわしい人間ではないので」が決まり...






