瞑想– category –
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唯一の健康法
自我意識では、肉体などの媒体を自分と思っているため、その外的な個人がどのような人物であるか、どのようなレベルであるかによって、自分とは「このようなものだ」という制限を、無意識のうちに自身にかけている。この自分像に応じて、自分に可能なこと、不可能なことが予測され、霊的なことは自分像からすれば不可能なことに基本的には分類されるものである。自身でかけるブレーキである。このような乗り物・媒体は、進まない。はたして、自分像が真我なのだろうか。像すなわち想念が真我なのだろうか。もっと... -

経験の領域
幸福を達成する者は、次は常に、不幸を求め始めるものである。いかなる快楽もやがては刺激に欠けるようになる。そして無刺激は刺激へと向かう宿命である。行ったり来たり。一方が成り立つためには他方が必要であり、したがって相反する対を為すものは、常に交互に訪れねばならないものである。幸福と不幸、安心と恐怖、快楽と苦痛、達成と失敗、歓喜と悲哀――この種のいずれも、常に一方が他方を演出する役割を果たしている。例えばスポーツ選手を見てほしい。負けた悔しさが大きいほど、勝った喜びもひとしおであ... -

食べすぎるなかれ
意識における真我の顕現を妨げるものとして、大食がある。多く飲み食いをしながら、深い意識に入ることは不可能に近い。ここを見落としている者がいるため、やや詳しく取り上げる。 大食というと、ダンテの神曲であったり、カトリック神学の禁欲的なものを思い浮かべるかもしれない。あるいは、旧約聖書ならば 「暴食の者は貧しくなり、酒を好む者はぼろをまとう(箴言23:21)」と言い、コーランならば「食べなさい、飲みなさい。しかし浪費してはならない。アッラーは浪費する者を愛されない(7:31)」と言い、... -

空の鳥を見よ
自我が、現状どうであろうと、霊的な方向にのみ意志が確立されていれば、何の問題もないことを、誰が理解しようとするだろうか。この確立は、絶えず完全な霊性を体現することを意味していない。心の態度として、真我以外のすべてに対して、本質的に無関心であり、無興味であり、ゆえに、何が起ころうとどうでもいい、あるいは、すべて起こることは完全であるという確信に生き、何も問題などないという、魂に立脚した喜びの意識が求められるのである。自我意識から魂意識は、時間はかかる。その間、適度に遊んで生... -

以前はできなかった
”静かに”(瞑想)したいと思います。しかし、静かにしたくない自分のことも認めます。まだ概念の中で遊びたいのだと思いました。概念が次第に真実に溶けて行き、いつしかそれそのものとして生きることが出来るのだと大きな勘違いをしていました。知識を得たい、知りたいとは、この私が(人生を)動かしたいという現れなのだとも思いました。 静かにしたくない暴れと、自分は別である。しばらくの間、静かにしていることは難しいだろう。それを無理に静かにさせることは、病気や狂気のようなものを引き起こす原因に... -

一神
質問の要点を抜粋する。 何故この人生をやっているのでしょうか。何故この自我とやらを出現させて、それから目覚めなければいけないコレをやっているのでしょうか。このことが少しでもわかったらまた前進出来そうと思ってる自分がいます。「私と神は同義語」であるなら、なぜこれをやっているのだろう。どうしても、理論上だけでもわかりたい自分がいます。 どの観点から答えようかと最初に思う。分離させる想念の、つまり人間が理解するための概念で、ジュワルクールのような説明を試みるべきか、それとも、「前...

