瞑想– category –
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至るという病
至る方法はあるのでしょうか。ないのでしょうか。ないのなら、人間は途方に暮れます。 途方に暮れる人と真のあなたは何の関係もないから問題ないのだが、これが分からないという無知が問題を作っている。「至る方法」と言うとき、あなたは内ではなく外へと向かう。つまり、低位我で何かを行っても、それは低位我の世界に属し、よって低位我を拡大するだけであることを、少なくとも理論的には納得しないといけない。それより、「至る方法」が必要なのはなぜなのか。何をあなたは恐れているのか。何から逃れんとして... -

第三の目と魂の目
「我々にできることは気づいていることだけである」とあなたは仰いました。そして私は気づこうと心がけました。そしてそれが間違いであることに逆に気づきました。なぜなら、そこには新たな努力があり、必然的に葛藤や抵抗による苦痛を伴わねばならなかったからです。そこで、「気づこうとすること」と「気づいていること」は異なる状態だと結論づけねばなりませんでしたが、いかがですか。 そのとおりだが、少し浅い段階で「結論」へ逃避しようとしている。次に見るべきは、「気づこうとする行為」によって生じた... -

寒気
私はひどい冷え性で、最近とても寒いのです。それで暖房器具や防寒着など、可能なものを取り揃えているのですが、それでも寒いときは寒いのです。この寒さに困っているとき、あなたの前回の記事を読みました。「あるものはない」という趣旨だと思いましたが、それはどれくらい現実的な話なのでしょうか。私は、「寒さは在るか」と自分に問いかけ、寒さを見てみようとしました。すると、寒いだけでした。なので、あなたの意見は、私たちの現実の話ではないと思います。 私が寒さを感じたとする。そして、その「寒さ... -

修正される自己に我々は興味を持たない
誰かを批判したくなるとき、そういう自分に対してどうにかしようとすること自体が逃避である、という趣旨の記述について疑問に思ったので質問します。自己修正が正しい修行ではないのでしょうか。なぜそれが逃避になるのか理解できないのです。 まず、すべての人に対し、自己修正の無意味さを述べたわけではない。そのような時期はある。それは低位我の意識しか知らない時期に行われることである。瞑想は、意識を低位から高位へ引き上げるものであり、いったん自身が低位我と関係ないことが理解できたならば、批判... -

光の道
肉体が「私」ではないことを理解しているかという問題。頭で理解しているだけならば、自身を肉体と思いながら依然として行動し生き続けるだろう。真理は、自身を肉体と思いながら理解できない。このことを強調すべきである。なぜなら、我々は肉体である私として学んでいるからである。そういう時期はあり、また経る必要があるだろうが、乗り越える必要もある。私が肉体ではないのなら、他人も肉体ではないのである。真の私はどの肉体でもなく、すべての顕現の原因である生命にほかならない。生命だけが在る。生命... -

物質のグナの話
遅刻する人がいる。寝坊する人がいる。どうしても起きれなくてと言う。あるいは、すべきことをギリギリまでやらないで、時間ギリギリでないと始められない人がいる。そして結局は時間に追われてミスをしたり遅れたりする。このような人はどういう状態に置かれており、なにゆえにいつもそうなのであろうか。 それが低位であれ高位であれ、すべての界層の物質には三つの様相ないしは特質がある。それをヒンズー哲学などではサットヴァ(リズムと調和)・ラジャス(活動性)・タマス(惰性)の概念で説明している。「...






