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愛に生きる
人が分離した自分を理解のなかに抱擁し、溶かし、自然へと還すとき、理解され圧倒されるのは愛ではなかろうか。自我を霊的な世界に惹きつけるためには、至福や喜びや解放が、個人と関連づけて強調されるかもしれない。しかし、瞑想は自我に愛の美しさを教える。世界は混沌としているように見える。これを癒やすのは愛しかないことをわれわれ人類は学んでいる。世界がその異常さに苦しんでいるのは、われわれが分離という錯覚に苦しんでいるからである。人は愛されたいという。人が真に自分のことを気にかけなくな... -
問題の解決
何を言われようが、何を質問されようが、興味があるとするなら一つだけである。なにが問題なのか。 欠落しているものが補われれば事足りるのだろうか。貧乏人が富み、病人が症状から解放され、絶望が希望に変わるとき、われわれは問題がなくなったと言う。それは両極端を往復する繰り返しである。われわれの生は、快楽と苦痛、幸福と不幸、欲望と恐怖を行ったり来たりするが、その終わりはない。むしろ交互の来訪が約束なのだが、好ましい一方だけを求める戦いが繰り広げられている。稀に、この幼稚な精神に弄ばれ... -
人知を超えた平和
何が起こったとしても内なる静けさをかき乱されない境地に達することは可能である。そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスである魂の中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配... -
仮想現実
われわれは、私という感覚を持ちながら自我の破壊を望むが、その方法には熱心であっても、私自体には無関心である。なぜなら、本当に私が見られたら彼の世界つまり信じたいものは終わってしまうから。日頃より、筆者がものごとを自作自演と呼ぶのは、自我の根底に、その自作自演を知る者がいるからである。それもまた私なのである。 悲しんでいる人がいる。肉体の現象で彼は泣いており、彼は嘆きに苦しんでいる。と同時に、彼はその現象を離れて内から見ており、なぜこれが起きているかを知っている。彼は自ら想念... -
エレメンタルの統御
誰も「それそのもの」には関心がない。パソコンを付けても、モニターが映し出すものを求め見るのであって、モニターそのものはではない。なぜなら、モニターそのものは欲望を満たさないからである。世界もまた様々なものを映し見せるが、世界の原因そのものは人間の欲望を満たさない。映像や体験は、人間のマインド、情緒や欲求、そして肉体を刺激し捉える。つまり人間は、自分自身(三つの低位顕現体)の形成者の意向通りに騒音をかき鳴らすフォース、すなわち諸体のエレメンタルの養分を供給することには熱心で... -
明け渡し
自我を放棄する覚悟が必要だ、と彼は表現した。ラマナ・マハルシの「本」を彼は学んでおり、いわゆる「明け渡し」を実践しようと試みている。そのような覚悟がなければ真の明け渡しではなく、真我実現は不可能だと言うのである。本が与える知識を所有するときに起こりやすい錯覚である。 明け渡しは方法ではなく状態ではなかろうか。つまり、彼の言う「真我」が、彼の想像する「自我」に現れて、彼が所有していた想像の産物といずれも関わりをもたせなくなった状態である。状態を実践できるだろうか。落ち込んでい...